出自と受難
- 孫臏は阿・甄の間に生まれ、孫武の後裔にあたる。かつて龐涓と共に兵法を学んだが、龐涓は魏に仕えて恵王の将軍となった後、自分の才が孫臏に及ばぬことを恐れ、密かに孫臏を招いて刑罰を科し、両足を切り黥を入れて世に出さぬようにした。
斉への亡命と田忌の信任
- 斉の使者が魏を訪れた際、孫臏は刑余の身のまま密かに面会して自説を説き、使者は感服して密かに斉へ連れ帰った。斉の将軍田忌がこれを客分として厚遇した。
- 田忌が公子らと競馬をする際、孫臏は馬の上中下の格の違いを見抜き、「下駟を彼の上駟に、上駟を彼の中駟に、中駟を彼の下駟に当てよ」と献策し、田忌は二勝一敗で千金を得た。これにより孫臏は威王に推挙され、師として仕えることとなった。
桂陵の戦いと囲魏救趙
- 魏が趙を攻めた際、斉は田忌を将、孫臏を軍師として救援に赴いた。孫臏は「もつれた糸は力で引かず、争いは搏たず、手薄な所を衝けば自ずと解ける」と説き、趙を直接救わず魏の都・大梁を衝く策を献じた。魏軍は趙を捨てて自国を救おうとし、桂陵で斉軍に大敗した。
馬陵の戦いと龐涓の最期
- 後に魏・趙が韓を攻めた際も、斉は田忌を将として大梁を衝いた。魏将龐涓はこれを聞いて撤退。孫臏は斉軍が臆病とみられていることを利用し、かまどの数を十万から五万、二万へと日ごとに減らして退却を装った。龐涓はこれを信じて軽兵で追撃し、馬陵の狭路で「龐涓この樹の下に死す」と記した木の下で斉軍の伏兵の一斉射撃を受け、大敗を悟って自刎した。斉は勝ちに乗じて魏軍を破り、魏の太子申を捕虜として凱旋した。孫臏はこれにより天下に名を知られ、その兵法は後世に伝わった。
史論
- 孫子は「その必ず救う所を攻める」と説くが、孫臏が大梁を衝いて趙の包囲を解かせたのはこれに当たる。また「勇怯は勢いによる」というが、龐涓が斉軍の怯えを侮ってかまどを減らす策に乗せられたのもこれである。