十七史百將傳卷一 越范蠡

出自と対呉戦の諫言

  • 范蠡は越の人。呉王夫差が兵を整えて越に報復しようとする中、越が先に呉を討とうとした際、范蠡は「兵は凶器、戦は逆徳、争いは末事である」と諫めたが、越王勾践は聞き入れず出兵し、呉に大敗して会稽山に籠る破目になった。

会稽の恥と屈辱の和議

  • 追い詰められた勾践に范蠡は「持満は天に、傾きを定めるのは人に、事を節するのは地による」と説き、卑辞厚礼で講和を求めるよう勧めた。大夫種を遣い臣妾となることを申し出させたが、伍子胥の反対で呉王は一度は許そうとしなかった。種は呉の太宰嚭が貪欲であることに着目し、美女・宝器を贈って嚭を通じて講和を成立させた。

臥薪嘗胆と国政

  • 帰国した勾践は苦身焦思し、常に胆を嘗めては会稽の恥を忘れぬよう己を戒め、百姓と労苦を共にした。范蠡に国政を委ねようとしたが、范蠡は「兵事では自分は種に及ばぬが、民を治め国を鎮めることは種に及ばぬ」と答え、結局国政は大夫種に、范蠡自身は呉への人質となった。二年後、呉から帰国。

呉討伐の好機を計る

  • 大夫逢同は「鷙鳥は姿を隠して撃つ」の理を説き、斉・晋・楚と結んで呉の増長を待つ策を勧めた。呉が斉を討った際、伍子胥は勾践への警戒を説いたが容れられず、太宰嚭の讒言で伍子胥は自害を命じられた。范蠡は好機をなお待ち、呉王が黄池で諸侯と会盟し精鋭を率いて出払った隙に、習流二千・教士四万・君子六千・諸御千の兵で呉を撃ち、呉の太子を討ち取った。

呉の滅亡と范蠡の隠退

  • 呉は秘してこれを隠し、講和して一時をしのいだが、数年後、越は再び呉を大破し、姑蘇山に呉王を包囲した。呉王は降伏を請うたが許されず、ついに自刃した。范蠡はその後、名を隠して三たび住まいを移し、いずれも成功を収め、最後は陶で富商として一生を終えた。

史論

  • 孫子は「力を屈し貨を尽くさせれば、諸侯はその弊に乗じて起こる」と説くが、范蠡が呉の黄池の会に乗じて討伐したのはこれに当たる。また「君命も受けざる場合がある」というが、政を大夫種に委ねながらも呉の使者を退けた判断もこれにあたる。