十六国春秋北燕錄二 馮弘
馮跋の末弟で、字は文通の馮弘。跋の代に驃騎大将軍・中山公として禁衛と朝政を握った。跋の死に乗じて天王位を僭称し、太興と改元して慕容氏を王后、その子王仁を太子とした。北魏の再三の遠征に押されて宋にも称藩したが、太子の人質を拒み続けて孤立した。和龍を焼いて高句麗へ逃れ、北豊で子孫ともども殺された。北燕最後の主である。
年表(9件)
即位までの経緯
- 馮弘、字は文通。跋の末弟で、跋の代に驃騎大将軍・中山公として内は禁衛を掌り外は朝政を総べていた。跋が死ぬと天王位を僭称し、太興元年(430年)春正月、境内を大赦し改元、慕容氏を王后に立てた。
立太子と魏との緊張
- 太興二年(431年)、慕容后の子王仁(一に王の字なきに作る)を太子に立てた。夏、魏の世祖(諱は燾)は南郊で軍を整え燕討伐を謀り、鼠が集団で川を渡る(一匹目が馬の尾を一に矢に作るくわえ後続が尾を咥え合う)異変や狼の遠吠えなど不吉な予兆が相次いだ。秋、世祖は太子(諱は晃)に留守を任せ自ら遠征し、和龍近郊の諸郡が次々に降った。
魏軍の侵攻と離反の連鎖
- 弘の出撃は魏軍に大敗し、尚書高紹の抵抗も鎮圧された。世祖は営丘・成周など六郡を平定し民を幽州へ移した。尚書郭緣が魏への服属を勧めたが、弘は「すでに負い目(一に釁に作る)がある、志を守るべきだ」と拒んだ。長楽公崇は魏へ降り遼西王に封じられ、弘は別将にこれを包囲させるなど内部対立も深まった。
太興三年〜四年 - 崇の降伏と弘の孤立
- 太興三年、崇救援の魏軍と燕軍の攻防が続き、崇は上表して父の説得を願い出たが許されなかった。太興四年、弘は称藩・請罪して娘を魏に差し出すことを申し出、人質として太子を送るよう求められた。使者于什門は燕に二十一年拘留されながら節を屈さず、世祖は蘇武にも比して称賛した。
- 太子の人質を渋る弘に、散騎常侍劉滋(一に訓に作る)は「魏は晋より強く、大挙されれば危亡の禍がある、速やかに太子を送り国力を立て直すべきだ」と諌めたが、弘は激怒してこれを殺した。魏はさらに討伐軍を送り燕の民を移住させた。
太興五年〜六年 - 宋への服属と滅亡への道
- 太興五年(435年)、弘は宋へ称藩し燕王に封じられ、江南では「黄竜国」と呼ばれた。魏への貢納を続けつつも太子の人質は拒み、大将軍湯燭(一に渇燭に作る)を派遣するに留めた。魏は再三の遠征で圧力を強め、太常楊邠は「魏の勢いは土崩瓦解のようなもの、高句麗は信を頼みにくい」と早期の決断を促したが、弘は高句麗への依存を選び密かに迎えを求めた。
和龍の陥落と東への逃亡
- 太興六年、魏軍は白狼城を陥落させ、高句麗王璉の遣わした大将葛居盧(一に葛蔓盧に作る)らの援軍が和龍に到着した。弘配下の内応工作は失敗し内乱が起こる中、弘は高句麗兵を城内に入れて対抗した。高句麗軍は和龍城内で大規模な略奪を行い、弘は城を焼き払い民を率いて東へ移った。魏の追撃は古弼の躊躇(一に鵝青に作る)により失敗し、世祖は激怒して古弼・娥清を降格させた。
弘の最期
- 高句麗は弘の引き渡しを拒み魏に称藩を申し出た。高句麗王は当初弘を丁重に扱ったが、弘が高句麗を侮り自国さながらに振る舞ったため関係は悪化し、太子王仁も人質に取られた。弘は宋へ迎えを求めたが、高句麗王はこれを望まず、別将に命じて北豊で弘とその子孫十余人を殺させた。馮跋の即位から弘の滅亡まで、北燕は凡そ二十八年続いた。