十六国春秋北燕錄一 馮跋
長楽信都の人で、字は文起、小字は乞直伐、畢万の後裔と称した馮跋。重厚寡黙で仁厚な大度の人物とされ、慕容熙に誅されかけて山沢に亡命した。兄弟と二十二人の同志で盟を結び、龍城に潜入して慕容熙を殺し、高雲を主に立てた。高雲の死後に天王を僭称して国号を燕、太平と建元した北燕の主。農桑を勧め太学を建てた。諡は文成皇帝。
年表(15件)
- 太平元年高雲が寵臣に殺されたのち主に推され、昌黎で天王を僭称し国号を燕とする
- 太平二年宗室の万泥・乳陳の叛乱を平定し、秋に高雲を厚く葬ってその廟を建てる
- 太平三年前朝の苛政を除く詔を発し、反対を押し切って楽浪公主を柔然の斛律に嫁がせる
- 太平六年褚匡の願いを許し、旧邦の宗族を迎えさせて多くの民を帰還させる
- 太平六年魏の使者于什門が拝礼を拒み、幽閉されても最後まで屈しなかった
- 太平六年冬夏主赫連勃勃と連和し、弟の遼西公素弗が卒する
- 太平七年尚書令孫護の弟らを殺し、護も後に毒殺、遼東太守務銀提も殺す
- 太平八年太学を建て、二千石以下の子弟を教育させる
- 太平九年太史令張穆が魏との和好修復を進言するが、決断しなかった
- 太平十年魏の長孫道生らの大軍を籠城策で凌ぎ、陥落を免れる
- 太平十一年穴居生活を送る「穴国」からの朝貢を受ける
- 太平十四年宿庫の地が燃え、以後も白毛や妖しい出産など不吉な予兆が続く
- 太平十七年娘が男子に変わる異変を、傅権が君臣交替の象と説く
- 太平十八年太子の永が卒し、次子の翼が太子となる
- 太平二十二年病床で宋夫人が謀り、中山公弘が禁中に入る混乱の中で驚き恐れて死ぬ
出自と人物像
- 馮跋、字は文起。長楽信都の人で小字は乞直伐(一に代に作る)。先祖は畢万の後裔である。永嘉の乱に際し祖父和は上党へ避難し、父安は慕容永に征東将軍として仕えたが、永の滅亡後に東の和龍(一に昌黎に作る)へ移った。跋は幼くして頴異、成長すると重厚寡黙で仁厚な大度の人物であった。弟たちが任侠放逸に振る舞う中、跋だけは恭謹に家業に勤しみ、父母に高く評価された。
慕容熙政権下での決起
- 慕容熙が偽位に即くと跋兄弟を誅そうとし、跋も熙の禁令を犯したため兄弟と共に山沢へ亡命した。賦役に苦しむ民の怨みに乗じ、跋兄弟は万泥ら二十二人と盟を結び、龍城に潜入して熙を殺し夕陽公高雲を主に立てた。跋は使持節・征北大将軍・武邑公に進み、事の大小を跋兄弟が決するようになった。
天王への即位
- 太平元年、高雲が寵臣に殺されると、跋は変事を鎮め主に推されたが、弟の素弗に譲ろうとした。素弗が「子弟が父兄の業を頼みに先んじたとは聞いたことがない」と固辞したため、跋はついに晋の太元二十年、昌黎で天王を僭称し国号を燕、建元して太平とした。祖父・父を追尊し、素弗・弘・万泥ら一族と功臣をそれぞれ要職に配した。
万泥・乳陳の反乱鎮圧
- 太平二年、宗室の万泥と乳陳は自らの功に見合う待遇を得られないことを恨み叛いたが、跋は将を遣わして平定した。秋、跋は高雲を厚く葬りその廟を建てた。
太平三年 - 寛政の詔
- 太平三年、跋は「前朝の苛政はことごとく除け、守宰は仁恵を垂れよ」と詔し、上下は粛然となった。蝚蠕(柔然)の勇斛律(一に柔然可汗斛律に作る)が楽浪公主を求めた際、群臣の反対を押し切り「娘が嫁いで夫に従うことに千里は遠くない」と述べ嫁がせた。
内政の充実
- 跋は農桑を奨励し徭役を省き、守宰を派遣する際は自ら政治の要諦を問い質した。太平六年、河間の褚匡は「陛下は東夏(一に遼碣に作る)で龍飛された、旧邦の宗族を迎えたい」と申し出て許され、実際に多くの民を率いて帰還した。跋は養蚕・機織りの奨励や、質素な葬送を求める詔も発した。
魏の使者于什門との対立
- 太平六年、魏の太宗(諱は嗣)が遣わした謁者于什門(載記には耿貳に作る)は、跋が拝礼を求めたことに憤り屈することなく、幽閉されても最後まで降伏を拒み続けた。和龍の人々は「古の烈士でもこれには及ぶまい」と嘆じた。冬、夏主赫連勃勃と連和し、遼西公素弗が卒した。
太平七年 - 内部粛清
- 太平七年、跋は尚書令孫護の弟らを殺し、護自身も一旦は昇進させたものの後に毒殺した。遼東太守務銀提も怨望・叛意を理由に殺害した。
太平八年 - 太学の設立
- 太平八年、跋は「喪乱で礼楽が崩れ若者に学校の教えがない、王化(一に風化に作る)を彰し斯文を崇めるべきだ」として太学を建て、二千石以下の子弟を教育させた。冬、別将厙傉官斌の魏への離反と帰参、その後の魏軍による討伐があった。
東晋・柔然との通交と天変
- 太平九年から十年にかけて、東晋との通交や柔然との友好関係が続く一方、大旱への対応や兵気を思わせる赤気の出現もあった。太史令張穆は魏との和好修復を進言したが、跋は決断しなかった。
魏軍の侵攻
- 太平十年、魏の太宗は長孫道生らに大軍を進めさせたが、跋は籠城策で凌ぎ、李先の進言(外援遮断策)を道生が用いなかったこともあり陥落を免れた。魏軍は民を掠めて撤退した。
珍しい風俗の記録と相次ぐ天変
- 太平十一年、穴居生活を送る「穴国」からの朝貢があり、その独特な風俗が記録された。太平十三年以降、地震や奇怪な現象が相次ぎ、太史令閔尚は「百姓が西へ移る兆し」と占い、太平十四年には宿庫(一に渾に作る)の地が燃え、太平十五・十六年にも白毛が生える、妖しい出産があるなど不吉な予兆が続いた(この一件は『太平御覧』には「十五年」の条に作る)。
太平十七年 - 陰陽逆転の予言
- 太平十七年、北部の人の娘が男子に変わったという異変に対し、尚書左丞傅権は「陰が陽に変わるのは君が代わり臣が僭する象、身を修め善を崇めれば禍を福に転じられる」と説いた。太平十八年、太子永が卒し次子翼が太子となった。
馮跋の死と政変
- 太平二十二年、跋が病篤くなると、妾の宋夫人は自分の子を立てようと図り太子翼を遠ざけ、詔を偽って内外を遮断した。中給事胡福の密告を受けた中山公弘は兵を率いて禁中に入り、混乱の中で跋は驚き恐れて死んだ。弘はそのまま天王の位に即き、太子翼に死を賜り、跋の子百余人をことごとく殺した。跋は長谷陵に葬られ文成皇帝と諡された。