十六国春秋北涼錄二 沮渠茂虔

沮渠蒙遜の第三子で、牧犍とも記される沮渠茂虔。聡明好学で温和な人柄を買われ世子に立てられた。父の死後に河西王位を僭称して永和と改元し、闞駰・劉昞ら多くの学者文人を登用した。妹を魏へ送り、魏の武威公主を娶って通婚したが、のち反逆の意を疑われた。崔浩の主張で決した魏の親征により姑臧が陥落して降伏し、平城へ移された後に死を賜り、北涼は滅んだ。諡は哀王。

年表(10件)
  • 永和元年蒙遜の卒去により謙光殿で河西王を僭称し、大赦して永和と改元する
  • 永和元年妹の興平公主を魏へ送り、車騎将軍・涼州刺史・河西王とされる
  • 永和元年冬劉昞を国師と尊び、自ら拝礼する
  • 永和二年433年宋へ上表して蒙遜に武宣王の諡を奏請し、征西大将軍・河西王とされる
  • 永和四年雷の落ちた場所から「河西、河西、三十年で破れる」と記された石が見つかる
  • 永和三年434年燉煌の父老の予言書をめぐり張慎が諌めるが、不快に思う
  • 永和五年436年魏へ「燉煌実録」「涼書」など百五十四巻を献じ、世子封壇を人質に送る
  • 永和五年冬436年魏の世祖の妹である武威公主を娶り、使者を送って謝意を表す
  • 永和六年437年李順の諌めにより、魏の世祖は涼州討伐を思いとどまる
  • 永和七年438年謙光殿の狐、端門の崩壊、仏塔から流れる血など異変が相次ぐ

即位の経緯

  • 沮渠茂虔(一に牧犍に作る)は蒙遜の第三子である。初め酒泉太守となり後に燉煌に遷った。蒙遜が病篤くなると、国人は世子菩提がまだ幼弱であるとして、聡明好学で温和な茂虔を世子に立てた。蒙遜が卒すると茂虔は謙光殿で河西王位を僭称し、境内を大赦して永和(一に承光に作る)と改元、子の封壇を世子に立て、闞駰・張湛・劉昞・索敞・陰興・宗欽・趙柔・程駿ら人材を登用し魏へ使者を送った。

魏との通交

  • 蒙遜の死により魏の世祖が迎える予定だった蒙遜の娘の代わりに、茂虔は妹興平公主を魏へ送った。世祖は公主を左昭儀とし、李順の予言の的中を喜んで茂虔を使持節・車騎将軍・涼州刺史・河西王とした。茂虔は功なくして賞を受けたとして上表し安平の一郡を求めたが許されなかった。冬、茂虔は劉昞を国師と尊び自ら拝礼した。

蒙遜への諡号奏請

  • 永和二年(433年)、茂虔は宋へ上表し、功績は物を済うことを務め(一に「高」に作る)とすべきものと述べ、蒙遜の功績を称え「武宣王」の諡を奏請した。宋は蒙遜を悼んで顕諡を加え、茂虔を征西大将軍・涼州刺史・河西王とした。

天変地異と予言

  • 永和三年(434年)、燉煌に現れた父老の予言書「涼王三十年、若しくは七年」に、奉常張慎は「徳を崇め政を修めれば三十年の祚を享受できるが、遊猟酒色に荒れれば七年で大変事が起こる」と諌め、茂虔は不快に思った。永和四年、雷の落ちた場所から「河西、河西、三十年で破れる」と記された石が見つかるなど、不吉な予兆が相次いだ。

魏との交流と婚姻

  • 永和五年(436年)、茂虔は魏へ多くの貢物と共に「燉煌実録」「涼書」など百五十四巻の書籍を献じ、世子封壇を人質として送った。冬、世祖は妹の武威公主を茂虔に嫁がせ、茂虔は使者を送り謝意を表した。

李順との問答

  • 永和六年(437年)、涼州討伐の可否を問われた李順は「民の労苦がすでに久しい、頻りに動かして労瘁を増すべきではない、西征は他の年を待つべきだ」と諌め、世祖は思いとどまった。

永和七年 - 不吉な前兆

  • 永和七年(438年)、謙光殿での朝見の際に現れた狐、崩れた端門、仏塔から流れる血、太廟階段の陥没、当陽城門の崩壊など、相次ぐ異変が記録された。

魏との関係悪化

  • 魏の使者が姑臧(一に武威に作る)へ戻った際、茂虔の左右の者が「我が君は蠕蠕可汗の虚偽の情報を信じ、魏はすでに衰弱していると国中に喧伝し、西域諸国に魏使への供応拒否を呼びかけている」と告げるという事件が起き、世祖は尚書賀多羅を遣わし虚実を観察させると、茂虔の内実の反逆意図が疑われた。

討伐の議論と崔浩の分析

  • 世祖が崔浩に討伐の可否を問うと、浩は「茂虔の逆心はすでに露見している、討たないわけにはいかない、茂虔は劣弱で諸弟は権を争い民心は離反している、まさに滅亡すべき国だ」と述べた。しかし公卿の多くは「涼州には水草が乏しく大軍は長く留まれない、羈縻に留めるべきだ」と反対し、李順・古弼も同調した。

崔浩の反論と討伐決定

  • 崔浩は『漢書地理志』を引いて「涼州の家畜は天下随一に豊か、水草がなければ家畜は繁殖できない」と反論し、李順らが「目で見た事実だ」と応じると「金銭を受けて弁じているのだろう」と喝破した。世祖はこの議論を密かに聞いており、群臣を厳しく咎めた。振威将軍伊馥も浩を支持し、世祖は討伐を決断した。

魏軍の進撃と茂虔の十二の罪状

  • 世祖は自ら軍を率い、皇太子(諱は晃)に監国させ、楽安王(一に長楽王に作る)らに柔然への備えを命じた。茂虔には十二の罪状を数え上げた書を送り、正朔への不服従、朝貢の怠慢、僭号と偽官の両取り、通行妨害、驕慢、皇室との婚姻にもかかわらず嫂との姦通や公主への毒殺企図など重大な非を列挙し、自ら降伏するか討たれるかの選択を迫った。

涼州侵攻

  • 魏軍は諸道から進撃し、平西将軍賀源の「姑臧の鮮卑諸部は臣の旧民、国威を示せば必ず帰服する」との策で外援を断った。茂虔は魏軍来襲に驚き、姚定国の策で出迎えを拒み柔然に援けを求め、弟の董来に迎撃させたが潰走し、魏の常山王赤壁が姑臧に迫った。茂虔は柔然の助けと魏軍撤退を期待し籠城したが、兄の子祖の投降で軍情が漏れ、賀源(前は平西と作り、また安遠とも作る)の招撫で周辺部族も次々に魏へ降った。

姑臧の陥落と茂虔の降伏

  • 世祖は太子に「姑臧城外の湧泉は河のように大きく、他の溝渠は漠中(一に沢中に作る)へ流れ込み大軍数年分を供するに十分だ」と告げ疑いを解いた。九月、姑臧城は陥落し、茂虔は文武五十人と共に自ら縛られて降伏、世祖は縛を解き藩臣の礼で待遇した。周辺の雑夷(一に胡字に作る)の降伏者も数十万に及んだ。世祖は崔浩・伊馥の見識を称賛した。

涼州の遺産と茂虔の最期

  • 世祖は茂虔の宗族・吏民三万余戸を平城へ移し、なお妹婿の礼で遇して征西大将軍・河西王とし、蒙遜のために墓守りを置いた。涼州は多くの文人を輩出した地であり、茂虔の臣下もみな登用された。
  • しかし魏軍入城前の府庫略奪や、茂虔父子による毒殺・淫行の数々が発覚し、世祖は左昭儀沮渠氏(茂虔の妹)とその一族を誅した。さらに茂虔の反逆計画も発覚し、世祖は茂虔に死を賜った。茂虔は公主と長く別れを惜しんだ後、自裁し、王の礼で葬られ哀王と諡された。蒙遜の自立から凡そ三十九年、北涼はここに滅んだ。