十六国春秋西涼錄二 李歆
李暠の第二子で、字は士業の李歆。撫軍将軍・領護羌校尉として父を助けた。父の死後、宋繇らに推されて涼公に即き、嘉興と改元、母の尹氏を太后と尊んだ。即位早々に沮渠蒙遜を解支澗で大破したが、刑を厳しくし宮室を営んで諌言を退けた。群臣の切諌を斥けて東征を強行し、蒙遜に敗れて殺され、西涼は滅亡した。
即位と初期の軍功
- 李歆、字は士業。暠の第二子で撫軍将軍・領護羌校尉・監前鋒諸軍事となった。暠が死ぬと左長史宋繇らは歆を大都督・大将軍・涼州牧・涼公に推し、境内を大赦して嘉興と改元、母の尹氏を太后と尊んだ。
- 三月、河西王沮渠蒙遜は張掖太守沮渠広宗に偽って降ると見せかけさせて歆を誘い出そうとしたが、歆は蓼泉の伏兵を察知して引き返し、追撃してきた蒙遜を解支澗で自ら甲を貫いて迎え撃ち大破、百余里追撃して首七千余級を得た。
蒙遜との再戦と晋・宋への朝貢
- 嘉興二年(418年)秋、蒙遜が再び来攻したが張体順の諌めで歆は出撃を控え、蒙遜は秋麦を刈って去った。この年、歆は晋に即位を告げ、晋は歆を鎮西大将軍・涼州牧・酒泉公に任じた。
張顗・汜稱の諫言
- 嘉興三年夏、歆は刑を過度に厳しくし宮室の造営も止めなかったため、従事中郎張顗(一に顕)は「太祖(李暠)が創業の規を開かれたのに、殿下が先志を奉じきれなければ地下で先王にお会いできない、身を慎み道を修める(一に過に作る)べき時に、かえって刑法を繁重にし宮室に力を注いでいる、沮渠蒙遜は攻戦にあたり自ら士卒と同じくし(一に均に作る)、百姓はこれを慕っている、蒙遜がかえって社稷の憂いとなるのではと恐れる」と上疏したが、歆は不快に思った。
- 主簿汜稱も相次ぐ天変地異を挙げて「政治が修まらなければ災いを垂れて戒め告げるもの、殿下は宮室の造営をやめ遊猟を止め、清儉素朴を旨として国力を蓄え、賢俊を招いてから兵を興すべきです、そうでなければ社稷の危機は十二年を出でずして訪れるでしょう」と諌めたが、これも聞き入れられなかった。
東征の強行と李歆の戦死
- 嘉興四年(420年)、晋の恭帝が宋へ禅譲すると歆は宋に貢献し、征西大将軍・酒泉公に任じられた。歆は東伐を謀り、張体順の切諌にも構わず、蒙遜が秦の浩亹を攻めたと聞くと張掖攻撃を決意した。尹太后も不可としたが(詳細は太后伝に見える)、宋繇の固い諌めにも歆は怒って聞き入れず、繇は「大事は去った、軍が帰るのを見ることはあるまい」と嘆いた。
- 歆は歩騎三万を率いて東征したが、蒙遜は偽りの布告で歆を誘い込み、懐城でこれを破り、歆は蓼泉で再戦の末に殺された。
西涼の滅亡
- 歆の子重耳は江左へ逃れ宋に仕え、後に北魏に帰し弘農太守となった。歆の弟たちは燉煌へ逃れたが、まもなくこれを棄てて北山へ逃げ込んだ。蒙遜は酒泉に入城し士民を安堵させ、宋繇ら涼の旧臣を礼を尽くして登用した。尹太后とその娘たちは伊吾で死んだ。
- 歆が敗れる前、大蛇の出現や鵲が烏に殺される怪異、燉煌の父老の家に現れた白髪の翁の予言的な言葉など不吉な前兆が相次いだという。暠が僭位した庚子の歳から、歆が滅ぼされた庚申の歳まで、凡そ二十一年であった。
唐書に基づく系譜の補注
- 案(考えるに)、唐書によれば李暠は老子の末裔であるという。暠―歆―重耳(魏弘農太守)―熙(金門鎮将、武川に家を構えた)―天賜(幢主)―虎(後周の開国功臣、大野氏を賜り柱国となる)と続き、虎の子昞の代に隋で李氏の姓に復し、昞の子淵が唐公を継ぎ、次子世民の力で隋に代わり天子となった。これが唐の高祖であり、世民は太宗である。長く続く祥瑞の源を遡れば、暠にとっての唐は、あたかも周における后稷のようなものだという。
- 高祖の武徳元年、先祖の熙・天賜・虎・昞をそれぞれ宣簡公・懿王・景皇帝(廟号太祖)・元皇帝(廟号世祖)と追諡し、武昭王(李暠)の祖父とともに天子の礼で祀った。高宗は老子を太上玄元皇帝と追号し、玄宗の代にはさらに尊号が重ねられ、李暠自身も最終的に「興聖皇帝」と追号された。