十六国春秋西涼錄一 李暠
隴西成紀の人で、漢の前将軍李広の十六世孫を称した李暠(字は玄盛、小字は長生、享年六十七)。若くして学を好み経史に通じ、特に天文をよくした。段業のもとで燉煌太守となった。庚子元年に唐瑶らに推されて涼公に即き、のち酒泉へ遷って農事を勧め、晋へ密かに上表した。西涼の建国者で、「槐樹賦」「述志賦」を著した文人でもある。諡は武昭王、廟号は太祖。
年表(19件)
- 龍飛二年郭謙・索仙らに推され、段業から安西将軍・燉煌太守・護西胡校尉とされる
- 庚子元年冬400年唐瑶に推されて涼公に即位し、大赦して庚子と建元する
- 癸卯四年泮宮を建てて学生を増やす
- 甲辰五年世子の譚が卒し、第二子の歆を世子に立てる
- 壬寅三年402年南門外に静恭の堂を建て、聖賢忠臣の図讃を掲げて鑑戒とする
- 建初元年405年大都督・大将軍を称して建初と改元し、密かに晋の京師へ上表する
- 建初元年冬405年蒙遜の本拠に迫るべく、燉煌から酒泉へ遷居する
- 建初二年406年自ら諸子への戒めを書き記し、佞臣を遠ざけ賞罰を公平にせよと諭す
- 建初二年秋八月406年南涼の禿髪傉檀が娘の敬愛を酒泉へ送り和好を通じる
- 建初二年九月406年建康まで地を略し、鄯善・前部王も朝貢する
- 建初二年冬十月406年沮渠蒙遜の建康侵攻を追撃して彌安で大破し、民を取り戻す
- 建初三年冬407年返答が無いため再び密使を晋へ送り、河隴席巻の備えが整ったと報じる
- 建初四年白狼・白兎・白雀の瑞祥が相次ぎ、酒泉宮に生えた槐に「槐樹賦」を著す
- 建初六年姑臧に拠って称臣した焦朗の称号を認め、秋に蒙遜と盟約を結ぶ
- 建初七年盟約を破った蒙遜を籠城で疲れさせ、世子歆に迎撃させて大破する
- 建初九年413年曲水で群僚を宴して詩を賦させ、冬に諸葛亮の訓戒を写して子らを励ます
- 建初十年414年傉檀・蒙遜の版図拡大を慨嘆し、自らの覇業を顧みて「述志賦」を著す
- 建初十二年415年蒙遜の侵寇が続く中、討伐の勧めを退け徳による撫民に努める
- 建初十三年春417年宋繇に後事を遺命し、義熙十三年二月に薨じる。年六十七
出自と家系
- 李暠、字は玄盛、小字は長生。隴西成紀の人で、漢の前将軍李広の十六世孫にあたる。広の子で侍中の李敢の後裔、その曾孫仲翔は後漢初め将軍として叛羌を討ち戦死し、子の伯考が喪に赴きそのまま狄道の東川に葬ったことから、以後代々西州の名門となった。高祖の雍、曾祖の柔は晋に仕え顕職を歴任し、祖父の弇(音は奄)は前涼の張軌に仕え武衛将軍・天水太守・安世亭侯となった。父の昶は世子の侍講となったが十八歳で卒し、暠はその遺腹子である。
- 暠は若くして学を好み、性格は沈着聡明、経史に通じ特に天文をよくした。かつて呂光の太史令郭黁および同母弟宋繇と同宿した際、黁は繇に「李君のような人物はいずれ国土を分かつことになろう」と予言的な言葉を告げた。
燉煌太守への就任と索嗣の排除
- 呂光の龍飛二年、段業の反乱に伴い光は暠を効穀令に任じた。燉煌護軍郭謙・沙州治中索仙らは暠を寧朔将軍・燉煌太守に推し、宋繇の勧めもあって暠は業に認められ、安西将軍・燉煌太守・領護西胡校尉となった。業が涼王を僭称すると、右衛将軍索嗣の讒言により嗣が暠に代わって燉煌太守に任じられたが、張邈・宋繇の進言で暠は迎撃を決意、二人の子や司馬らに嗣を撃破させ、嗣は張掖へ逃げ帰った。
- かつて刎頸の交わりを結んでいた嗣に裏切られた暠は深く恨み、罪状を段業に訴えて自らの忠節を表明した。業配下の沮渠男成も嗣を憎んでいたため、業は嗣を殺し暠に謝罪、涼興郡を分置して暠を使持節・都督涼興已西諸軍事・鎮西将軍・領護西夷校尉に進めた。
涼公への即位
- 庚子元年(400年)冬、赤気・龍の跡といった瑞祥が現れる中、晋昌太守唐瑶が段業に反して六郡に檄を回し、暠を大都督・大将軍・沙州刺史・涼公に推した。暠は境内を大赦し建元して庚子とし、祖父・父を追尊、子の譚を世子に立て、唐瑶・郭謙・索仙・張邈・宋繇ら人材をそれぞれ要職に配して夷夏の人心をよく懐柔した。折衝将軍宋繇に玉門已西の諸城を攻略させ持久策を敷いた。
内政の充実と瑞祥
- 壬寅三年(402年)、南門外に「静恭の堂」を建て古来の聖賢忠臣の図讃を掲げ鑑戒とし、白雀飛来を喜んだ。癸卯四年、泮宮を建て学生を増やした。甲辰五年、世子譚が卒し第二子歆を世子に立てた。
建初改元と晋への上表
- 建初元年(405年)、暠は大都督・大将軍を称し建初と改元、密かに使者を晋の京師へ送り、漢晋の興亡の歴史と張軌一族の涼州経営の功績を長々と称え、天錫(張天錫)の代に兵寇が境を侵し社稷が廃墟となった(一に「以喪」に作る)経緯や、奸人が相次いで僭窃(一に「襲字」に作る)して天下を乱してきた事情に触れつつ、自らも西方の藩屏としての忠節を尽くす意志と涼公即位の正統性を訴える上表を奉じた。
- 冬、暠は「張掖以東の晋の遺民は蒙遜に制されながらも義を慕っている、都を酒泉へ遷し賊の本拠に迫ろう」と群僚に諮り、右長史張邈の賛同を得て、宋繇・讓に燉煌を守らせ酒泉(今の粛州)へ遷居した。
子への訓戒
- 建初二年(406年)、暠は自ら諸子への戒めを書き記した。「今日の即位は本来の願いではなかったが、事のなりゆきで州土を担うことになった、後事はお前たちに委ねる、酒を節し言葉を慎み、愛しながら悪を知り憎みながら善を知れ、佞臣を遠ざけ忠正を近づけよ、刑は理に応じ賞罰は公平に、富貴でありながら驕らないのは至難のこと、これを心に留めよ。この郡は代々忠厚な気風が篤く、公理を行うにも小さな迂回(一に違に作る)があろうが宜しきに随って斟酌せよ。私が国を治めて五年、瑕疵を覆い垢を除いてきた、古人の基準には及ばずとも新たな賢者(哲は一に旧に作る)にも劣らぬと思う」と述べた。
南涼との和親と対蒙遜戦
- 秋八月、南涼の禿髪傉檀は暠の娘敬愛を酒泉へ送り和好を通じた。九月、暠は建康まで地を略し鄯善・前部王も朝貢した。冬十月、沮渠蒙遜の建康侵攻に対し暠は大いに怒って追撃し彌安で大破、掠められた民を取り戻した。
- これより先、江漢・中州から移された流民や郭黁の乱を避けた人々を暠は酒泉へ集め、会稽郡・広夏郡などを分置し、燉煌南に城を築いて南虜に備えた。この年、「百勝」と銘した珠碧の刀二口を作らせた。
晋への再度の上表
- 建初三年(407年)冬、先の上表への返事がないため再び使者を密かに晋へ送り、農事に励み兵を養った三年間の経緯と、今や資儲・器械が整い河隴を席巻する準備が整ったこと、世子歆を先鋒に次子讓を西域統括に配したことなどを報告した。
農業奨励と瑞祥
- 酒泉への遷居後、暠は農耕を篤く勧め豊作が続いたため、群僚は酒泉に頌徳の銘を刻み、建初四年には白狼・白兎・白雀など様々な瑞祥が相次いだ。河右の地に育たなかった槐の木が酒泉宮に生えたことに暠は「槐樹賦」を著して感懐を寄せ、僻遠の地で功を立てることの意味を自ら問うた。
沮渠蒙遜との攻防
- 建初六年、魏安の焦朗が姑臧に拠り称臣すると、暠はその称号を認めた。秋、沮渠蒙遜の来攻に世子歆は馬廟で敗れ別将朱元虎が捕らえられたが、暠は金銀で贖い蒙遜と盟約を結んだ。
- 建初七年、蒙遜が盟約を破って再び来襲すると、暠は「その鋭気を挫くことだ」として籠城策を取り、蒙遜の兵糧が尽きたところを世子歆に迎撃させ大破、その将沮渠百年を捕らえた。
曲水の宴と諸葛亮の教え
- 建初九年(413年)、暠は曲水で群僚を宴し詩を賦させた。冬、諸葛亮の訓戒を書き写して子らを励まし「国を治めるには安泰を致すに足り、身を立てるには名を成すに足る、経史や道徳に勤める者は功が多い」と説き、燉煌の旧塞を修めて南北の防備を固めた。
述志賦の著述
- 建初十年(414年)、暠は呂氏の末に群雄に推され兵を血で汚すことなく座して千里を定めた自らの覇業を顧みつつも、禿髪傉檀・沮渠蒙遜の版図が広がったことを慨嘆し「述志賦」を著した。その内容は、虚無を超える思索、顔回や荘子・隠者への憧れと俗世からの超脱の志、呂氏の内紛に発した河西の荒廃への悲しみ、それでも弱水を跨ぎ崑崙を城壁として基を建てた自らの覇業、張良・諸葛亮の智謀や関羽・張飛の武勇になぞらえた功業、劉邦・孫権にも比すべき志を語り、最後に天下統一と将来の栄光への希望を詠んだものであった。
家族と晩年
- これより先、志を同じくした辛景・辛恭靖が晋へ帰り江南で害された際、暠はこれを弔った。前妻辛氏の死には自ら誄を作った。建初十二年(415年)、沮渠蒙遜の侵寇が続く中、暠は徳による撫民を志とし和を通じるのみとした。司馬索承明が討伐を勧めると、暠は「討伐できるだけの勢力がまだない、大言を唱えるだけなら石虎のような小人物を処刑すべきと言うのと同じだ」と退けた。
李暠の死
- 建初十三年(417年)春、暠は病床につき長史宋繇に「才は弱く智は浅く河右を一つにまとめることができなかった、志を伸ばせなかったことが心残りだ、世子はよく補佐し、驕り自任することのないよう伝えてほしい、軍国の事は卿に委ねる」と遺命した。晋の義熙十三年二月、薨じた。時に年六十七、在位十八年、建世陵に葬られ武昭王と諡し廟号を太祖とした。