十六国春秋南涼錄一 禿髪烏孤

出自と部族の由来

  • 禿髪烏孤は河西の鮮卑人である。その先祖は魏(拓跋部)と同じ出自で、八世祖の匹孤はその部衆を率いて塞北から河西へ遷った。その地は東は麦田・牽屯に至り、西は湿羅に至り、南は澆河に至り、北は大漠に接した。匹孤が死ぬと子の寿闐が立ったが、寿闐がまだ胎内にあった頃、母の胡掖氏は白馬に乗る老父から「涼に至れば必ず貴い男子を生む」と告げられる夢を見て、その後、寝床の中で出産したため「禿髪」(被り物の意)と号した。
  • 寿闐の孫樹機能は壮健果敢で謀略にも富み、晋の泰始年間(265-274年)秦州刺史胡烈・涼州刺史蘇愉を破り、咸寧年間には涼州刺史楊欣も殺してついに涼州の地をことごとく有し、武帝を憂慮させたが、後に馬隆に敗れ部民に殺された。以後、務丸・推斤・思復鞬と代を重ね部衆はしだいに盛んになった。烏孤は思復鞬の長子である。

呂光への服属と自立への布石

  • 晋の孝武帝太元十九年(394年)、烏孤は跡を継ぐと大将紛陀の「まず農桑に努め隣好を修めよ」との諌めに従い勢力を蓄えた。三河王呂光が仮節・冠軍大将軍などに任じると、烏孤は諸将の反対を抑え、石真若留の「根本がまだ固まっていない、受けて彼を驕らせ隙を待つべきだ」との進言に従いこれを受けた。
  • 太元二十年(395年)、烏孤は乙弗折掘ら諸部を討ち破り、㢘川堡を築いて都した。烏孤が㢘川の大山で涙を流した際、石亦干は呂光の衰えを指摘して憂いを晴らそうとしたが、烏孤は「私が業を継いでから諸部が背いた、近きですら乖離しているのに遠きがどうして帰服しようか」と答えた。別将苻渾の勧めで大いに軍を興すと諸部はみな来降し、奇略を好む趙振も家を棄てて烏孤に従った。呂光は烏孤を広武郡公に進封した。

呂光との決別

  • 太元二十一年(396年)夏、呂光が再び烏孤を征南大将軍などに任じようとすると、烏孤は使者に「呂王は徳をもって遠きを懐かせることができず、諸子は貪淫、郡県は土崩している、天下の心に逆らって不義の爵を受けられようか、帝王の興りに常道などない、私は天人の望みに順って天下の主とならん」と述べ、儀仗のみを留めて使者を帰した。

西平王の即位と涼州侵攻

  • 太初元年(397年)春正月、烏孤は自ら大都督・大将軍・大単于・西平王を称し建元して太初とした。涼の金城を攻略し、呂光の遣わした竇苟の軍を街亭で大破した。秋七月、涼の郭黁が反すると弟の利鹿孤に救援させ、冬十月には河南鮮卑の十二部が来附した。

楊軌の帰順と嶺南平定

  • 太初二年(398年)、涼の楊軌が郭黁救援に赴くと弟の傉檀に助けさせたが、呂纂に敗れて軌は㢘川へ逃れ、王乞基の勧めで烏孤に降った。しかし羌の梁饑に敗れ乙弗鮮卑の地を奪ったため、烏孤は「速やかに救わなかった」ことを恥じ、左司馬趙振の「嶺南五郡は取れる好機だ」との進言により梁饑を大破、西平・楽都など嶺南の郡県が次々に降り、楊軌・王乞基も数万戸を率いて帰順した。十二月、烏孤は武威王を称し弟の利鹿孤・傉檀をそれぞれ公に封じた。

楽都遷都と人材登用

  • 太初三年(399年)、楽都に遷都し諸将を要地に配した。楊軌をはじめ金石生・時連珍ら四夷の豪傑、陰訓・郭幸ら西州の徳望ある者、楊統・楊貞・衛殷・麹承明(一に丞)ら文武の秀才、梁昶・韓疋ら中州の才人をすべて才に応じて登用し、群臣に「兼弱攻昧の三者(乞伏氏・段業・呂氏)、どれを先にすべきか」と問うた。楊統は「乞伏氏はいずれ帰順する、段氏は不義を攻めるべきでない、呂光は老いて後継も暗愚だ、車騎(傉檀)・鎮北を要地に配し虚に乗じて交互に出兵すれば三年を出でずして姑臧は定まる」と進言し、烏孤は密かに併呑の志を抱いた。
  • 二月、青い刀一口を作らせた際、匠人は太乙神が現れ「敵が至れば刀は自ずと鳴る」と告げた夢を語った(この刀は後に突厥可汗の手に渡ったという)。夏四月、段業の救援要請に応じ呂纂を退けさせ、六月には利鹿孤を涼州牧とした。秋八月、烏孤は酔って落馬し負傷、群臣に「国難がまだ収まらぬ今、年長の君主を立てるべきだ」と言い残して死んだ。在位三年、偽って武王と諡し廟号を烈祖とした。弟の利鹿孤が跡を継いだ。