十六国春秋西秦錄三 焦遺

王佐の才と孝行息子

  • 焦遺は南安の人。乾帰の代に太子太師として国の大謀に参画した。乾帰は「焦生(焦遺)はただの名儒ではない、王佐の才の持ち主だ」と述べ、熾磐に「彼に仕えること私に仕えるのと同じようにせよ」と命じた。
  • 遺の子華はきわめて孝行であった。遺が重病で冬に瓜を欲しがった際、華は夢で「お前の父が瓜を思っていると聞いた、これを送り養生させよう」と告げられ、目覚めると香り高い瓜が果たして手にあり、遺はこれを食べて病が癒えたという。乾帰は娘を華に娶らせようとしたが、華は「王姫を蓬茅の身に下嫁させるのは相応しくありません」と辞退し、乾帰はその志を評価して尚書民部郎とした。

焦遺・楷父子の最期

  • 遺は後に安南将軍・都督八郡諸軍事・広寧太守に遷った。暮末の末年、南安の諸羌に主として推されたが従わず、羌人は遺の族子亮を脅して主に立て南安を攻めた。暮末はこれを撃破し、遺は亮を殺して降伏を報告し鎮国将軍に進められた。
  • 遺の次子楷は太子司直として仕えていたが、暮末が夏に降ると広寧へ逃れ、父の遺に「本朝が顛覆した今、大義を唱え仇敵を滅ぼすべきです」と訴えた。遺は「大軍で追えばかえって主上の命を絶つことになりかねない、王族の賢者を主に立てて討伐するほうがよかろう」と述べ、楷は壇を築いて衆に誓い一万余人を集めたが、折しも遺が病没し、楷は独りでは事を成せず河西へ逃亡した。