即位と沮渠蒙遜の侵攻
- 乞伏暮末、字は安石。熾磐の第二子である。元熙元年、太子に立てられ撫軍大将軍・都督中外諸軍事を領した。熾磐の卒後に即位し、境内を大赦して永弘(一に永洪)と改元、元基を相国・都督中外諸軍・録尚書事、謙屯を驃騎大将軍とするなど官制を整えた。
- 秋七月、河西王沮渠蒙遜が秦の喪に乗じて攻め、西平太守麹承の進言もあり蒙遜は西平を捨て楽都を攻めた。相国元基が救援に赴くも外城を攻略され水道を断たれて城中は飢渇し死者は半数を超え、内応もあって暮末は大いに恐れた。八月、沮渠城都の返還を条件に和を結び蒙遜は兵を引いた。以後、人質の送還を巡る駆け引きが続いた末、蒙遜は暮末に馬千匹などを贈った。冬十月、涼州牧千年は酒に溺れ政事を顧みず責められて河西へ逃げた。
内紛と困窮
- 永弘二年、西平は蒙遜に陥落され太守麹承が捕らえられた。二月、母の顔を射傷したことを恨んで尚書辛進とその一族を殺すなど粛清も相次いだ。夏、蒙遜の来攻で相国元基は枹罕を守り、暮末自身は定連へ退くなど苦戦したが、六月には太子興国を捕らえ蒙遜を譚郊まで追い、吐谷渾の来援軍も輔国大将軍段暉が大破した。秋七月、興国の身柄を巡る駆け引きの末、暮末は妹を興国に嫁がせた。冬十月、弟の軻殊羅が熾磐の左夫人と密通した事件から叔父什寅の謀反が発覚し、暮末はこれを誅殺した。十二月、地震があり野草がみな逆さに生えるという凶兆があった。
- 永弘三年、什寅の死を恨んだ白養・去列も誅殺された。秋、西秦は正月から九月まで雨が降らず、政刑も乱れ内外は崩壊し部民の流亡が相次いだ。
北魏への帰順模索
- 永弘四年冬十月、暮末は河西王蒙遜に圧迫され北魏に迎えを請い、世祖(太武帝)は平涼以東・安定以西の地を与えることを許した。暮末は城邑を焼き宝器を毀して民一万五千戸を率い東の上邽へ向かったが、夏主赫連定に阻まれ南安に留まることとなり、故地はすべて吐谷渾のものとなった。
- 冬十一月、北魏の迎えの軍が来たが衛大将軍吉毗の諌めで内遷を思いとどまった。南安の諸羌の反乱は氐王楊難当の援軍を得て鎮圧した。
西秦の滅亡
- 永弘四年(431年)春正月、夏主赫連定は暮末の将姚献を撃ち破り、叔父の北平公韋代に一万の兵で南安を攻めさせた。城内は大飢饉となり人々は互いに食い合い、重臣たちも城を越えて夏へ逃れた。暮末は窮まり棺を担いで城を出て降伏し、沮渠興国を上邽へ送った。夏六月、夏主は暮末とその宗族五百人を殺した。時に魏の神䴥四年であった。
- これより先、熾磐が長安にあった頃、端門の外の井戸で夜な夜な異音がし瓮の中が血のようになり寸光を放つ赤い魚がいたという前兆が語られていた。東羌・西虜が互いに攻め合う中、ここに至って国は滅んだ。国仁が孝武帝の太元十年に僭位してより暮末に至るまで四世、凡そ四十六年であった。