十六国春秋西秦錄二 乞伏熾磐

即位までの経緯

  • 乞伏熾磐は乾帰の長子である。性格は勇果英毅、機に臨んで決断力があり権略は人に勝った。かつて乾帰が姚興に敗れた際、熾磐は禿髪利鹿孤に人質として送られたが、後に南平から逃れて興に降り、興は振忠将軍・興晋太守に任じ、さらに建武将軍・行西夷校尉として部衆を苑川に留め鎮めさせた。乾帰が政に復すると熾磐は再び太子・領冠軍大将軍・都督中外諸軍・録尚書事に立てられた。後に乾帰が秦に称藩すると興は熾磐を仮節・鎮西将軍・左賢王・平昌公とし、まもなく撫軍大将軍に進めた。乾帰が死ぬと熾磐は位を襲い自ら大将軍・河南王と称し、境内を大赦して永康と改元した。九月、尚書令翟勍を相国、麹景を御史大夫、段暉を中尉、弟の延祚を禁中録事、樊謙を司直とし、官制を整理した。

吐谷渾・休官諸部との戦い

  • 永康二年春三月、龍驤将軍智達・平東将軍王松寿を遣わし吐谷渾の樹洛干を澆河で大破し三千余戸を虜として帰った。鎮東将軍曇達・平東将軍王松寿は休官の権小郎・呂破胡を白石川で大破し白石城を攻略、反乱した顕親公休官の権小成・呂奴迦らも討ち平らげ、隴右の休官はことごとく降った。秦の太尉索稜が隴西を挙げて来降し太傅とされた。
  • 夏四月、安北将軍烏地延・冠軍将軍翟紹が吐谷渾の別統句勤(一に旁)を泣勤川で大破し、秋七月には熾磐自ら諸将を率いて別統支旁を長柳川で討ち、九月には別統掘逵を渇渾川で大破し男女二万三千を捕らえた。冬十月、掘逵は残兵を率いて降った。

南涼禿髪傉檀の攻略

  • 永康三年春正月、五色の雲を瑞祥として喜んだ熾磐は、四方の隙を待って兵を整えた。夏五月、南涼の禿髪傉檀が西の乙弗を征討したと聞くと「行くべき時が来た」と述べ、太府主簿焦襲の「傉檀の退路を断てば虎台(傉檀の子)だけが窮した城を守ることになる、天が滅ぼす好機だ」との進言を容れ、歩騎二万で楽都を襲い十日ほどで陥落させた。
  • 平遠将軍犍虔に傉檀を追撃させ、謙屯を都督河右諸軍事・涼州刺史として楽都を鎮めさせ、禿髪赴単(烏孤の子である)を西平太守とするなど諸将を配し、虎台とその文武・百姓一万余戸を枹罕へ移した。六月、傉檀は勢い屈して降伏し上賓の礼で遇された。冬十月、熾磐は傉檀の兵力と地を兼ね得て再び秦王を称し百官を置き、十一月、妃の禿髪氏を王后に立てた。

沮渠蒙遜との攻防

  • 永康四年春三月、河西王沮渠蒙遜が広武郡を陥落させ、熾磐の遣わした将軍魋尼寅・折斐らも相次いで蒙遜に敗れた。夏四月、熾磐の子元基(一に元方)が長安から逃げ帰り尚書左僕射とされた。
  • 五月、熾磐は湟河を攻めたが沮渠漢平に夜襲され大敗、退却の途上で漢平の長史焦昶・将軍段景がひそかに熾磐を招いたため再び攻め、漢平は降ったが司馬隗仁は力戦の末に捕らえられた。熾磐は怒って斬ろうとしたが、散騎常侍段暉が「隗仁は難に臨んでも死を恐れなかった忠臣です」と諌めたため囚われの身とし、後に赦して姑臧へ帰した。六月、乙弗窟乾を降し諸将を各地に配した。秋七月、曇達を尚書令、王松寿を秦州刺史とした。冬十一月、南羌の彌姐康薄を赤水で討ち降した。

対秦攻勢と宋への接近

  • 永康五年春正月、洮陽公彭利和を漒川に攻めたが沮渠蒙遜の来援を聞き引き返し、二月には蒙遜と和親を結んだ。夏四月、曇達・王松寿らが秦の上邽を撃ち秦州刺史姚艾を破って民五千余戸を枹罕に移した。冬十月、秦州刺史王松寿に馬頭を鎮めさせ上邽に迫った。十二月、太尉劉裕(後の宋の高祖)に使者を送り秦討伐への協力を申し出、裕は熾磐を平西将軍・河南公に任じた。

樹洛干の死と国内整備

  • 永康六年春二月、安東将軍木奕干が吐谷渾の樹洛干を塞上で破り、その弟阿柴を堯扞川で破った。樹洛干は白蘭山へ逃れ慚憤のあまり病死し、熾磐は「先年は東で姚艾を敗走させ今年は西で狡猾な虜を遠く追い払った、国はようやく清まり、私にはもう憂いがない」と喜んだ。秋七月、相国翟勍が没し、八月には曇達を左丞相、子の元基を右丞相とするなど人事を刷新した。冬十月、曇達・元基が秦の旧将姚艾を東討すると艾は称藩し征東大将軍・秦州牧とされた。

乙弗鮮卑の内紛と諸羌の平定

  • 永康七年春正月、木奕干を沙州刺史とした。二月、乙弗鮮卑烏地延が二万戸を率いて降り建義将軍とされたが、地延の死後、従弟提孤らが西へ叛こうとするなど内紛が続いた。冬十月、姚艾が秦に反し河西へ降ろうとしたところ、艾の叔父儁が「秦王は寛仁で雅量がある」と衆を説いて艾を追い出し儁を主に推して熾磐に降伏を請い、熾磐は儁を隴西公に任じ左丞相曇達を南安鎮とした。
  • 永康八年夏四月、征西将軍他子が吐谷渾の覔地を弱水の南で大破しこれを降した。秋九月、左衛将軍匹逵・建威将軍梯君らが彭利和を漒川で大破し、利和は単騎で仇池へ逃れ、漒川の羌三万余戸はみな平穏に落ち着いた。冬十月、王松寿を益州刺史として漒川を鎮めさせた。

建弘改元と宋・北魏への外交

  • 建弘元年(420年)春正月、次子暮末を太子に立て境内を大赦し建弘と改元した。秋七月、宋(劉裕)が禅譲を受けたと聞き、熾磐は安西大将軍・秦王とする詔を受けた。九月、振武将軍王基らが河西王蒙遜の胡園の戍を襲い二千余戸を捕らえた。
  • 建弘二年、征北将軍木奕干らが上邽を攻めたが大雨で引き返し、吐谷渾王阿柴が降り征西大将軍・白蘭王とされた。河西王蒙遜の来攻は木奕干らが撃退し、契汗禿真討伐も進められた。建弘三年、他子らは契汗禿真を大破し男女二万口・牛羊五十余万頭を得た。出連虔らも沮渠城都を捕らえるなど戦果を重ねた。

北魏への接近

  • 建弘四年春三月、熾磐は群臣に「宋も夏も与するに足りない、ただ魏主だけは代々英武で賢能を用いる、讖にも『恒代の北にまさに真人あるべし』とある、私は国を挙げてこれに仕えよう」と語り、尚書郎莫者阿胡・積弩(一に積射)将軍又寅らを北魏へ遣わし黄金二百斤を貢ぎ夏討伐の方略を陳べさせ、太宗(北魏明元帝)はこれを許した。

河西・夏との消耗戦

  • 建弘五年から七年にかけて、熾磐は南方の白苟車孚・崔提旁を服属させ、太子暮末・征北将軍木奕干らに河西の白草嶺・臨松郡を攻めさせるなど攻勢を続けたが、建弘七年秋、河西攻めの最中に夏主赫連昌が呼盧古・韋代に苑川・南安を攻めさせたため引き返した。
  • 九月、韋代は南安を攻略し秦州刺史翟爽・南安太守李亮を捕らえ、吐谷渾の掘逵は叛いて吐谷渾王慕璝に付いた。冬十月、左丞相曇達は夏の呼盧古に嵻㟍山で敗れ、十一月には呼盧古・韋代が枹罕に迫り熾磐は定連へ退いた。鎮東将軍趙寿生の決死の防戦や出連虔・万年の奮戦にもかかわらず、西平の陥落・戦士五千余人の穴埋め・民二万余戸の略奪など被害は深刻であった。

建弘八年の混乱と北魏への服属

  • 建弘八年春、山羌の反乱に対する招撫は失敗し左丞相曇達は羌人に捕らえられ夏へ送られた。三月、諸将を各地に配し体制の立て直しを図った。秋七月、熾磐は「赫連氏は必ず成就しない」と述べ、八月には叔父の埿頭・弟の安度を魏へ人質として送り貢物を贈った。九月、氐王楊玄の攻撃で梁州刺史出連輔政は降伏を余儀なくされ、冬には南漒の梁州刺史呉漢も諸羌に攻められ枹罕へ逃げ帰るなど、周辺情勢はなお不安定であった。

熾磐の死

  • 建弘九年(428年)春、商州刺史姚濬の反乱を鎮圧しようとした尚書焦嵩は吐谷渾の元緒に捕らえられた。夏五月、熾磐は病床につき太子暮末に「私が死んだ後、お前が国境を保てればそれでよい、沮渠城都は蒙遜に重んじられている、彼のもとに帰すべきだ」と告げた。宋の元嘉五年六月、熾磐は卒した。暮末が位を継ぎ、偽って文昭王と諡し武平陵に葬り廟号を太祖とした。