即位と国家体制の整備
- 乞伏乾帰は国仁の弟である。雄武英傑で沈着かつ優雅、度量と策略を備えていた。国仁が死ぬと群臣は国仁の子公府がまだ幼いとして年長の君主を推し、乾帰を大都督・大将軍・大単于・河南王とし、境内を大赦して太初と改元した。秋七月、妻の邊氏を王后に立て漢制に倣って百官を置き、出連乞都を丞相・鎮南将軍・南梁州刺史、悌眷を御史大夫、邊芮を左長史、祕宜を右長史、翟勍を左司馬、翟瑥を右司馬、王松壽を主簿、従弟の軻弾を梁州牧、弟の益州を秦州牧、屈眷を河州牧とし、他もそれぞれ任じた。九月、金城に遷都した。
周辺勢力の帰順
- 太初二年(389年)春正月、秦の苻登は乾帰を大将軍・大単于・金城王に任じた(晋の太元十四年にあたる)。夏四月、南羌独如が七千を率いて降り、休官阿敦・侯年の二部が牽屯山を拠点とする辺害となっていたがこれを討ち破って併合し、威声は辺境に轟いた。鮮卑豆留鞨叱豆渾・南丘鹿結・休官曷呼奴・盧水尉地抜もみな率衆して降り、乾帰は皆に官爵を授けた。冬十一月、枹罕羌彭奚念が来附し北河州刺史とされた。
吐谷渾との外交と視羆の気概
- 太初三年(390年)夏四月、吐谷渾王視連が称臣し方物を貢いだため、乾帰は視連を沙州牧・白蘭王とした。秋九月、視連が死に子の視羆が立った。視羆は英果で雄略あり、父祖の仁愛が隣国に侮られていたことを憂い、博士騫苞に「先王は仁をもって世を治め威刑に頼らなかったため剛柔の決断がつかず隣敵に軽んじられた、今こそ馬を秣い兵を鍛え中国と覇を争うべきだ」と語り、苞は「大王のお言葉こそ世に抜きん出た策略です」と応じた。以後、視羆は心を虚しくして人を迎え入れ、衆は帰服するように集まった。
- 冬十月、乾帰は視羆を使持節・都督罷涸已西諸軍事・沙州牧・白蘭王に任じようとしたが、視羆はこれを受けず使者に「晋の道が乱れて以来、姦雄が競い立った、河南王(乾帰)は要害の地に拠りながら私に官を仮授しようとするとは、僭号する群凶を真似るものだ、寡人は五代の功業を継ぎ弓兵二万を擁し、まさに秦隴の気を掃い沙涼を清め、涇渭で馬を飲ませ鼎を問う者を誅し、天子を西京に迎えようとしている、なぜ帝室に勲功を立て名を王府に策せず、後世に名を残そうとしないのかと河南王に伝えよ」と述べた。使者がこれを報告すると乾帰は激怒したが、視羆の強さを憚りなお好を結ぼうとした。十一月、隴西太守越質詰帰が平襄に拠って反乱し建国将軍・右賢王を自称した。
越質詰帰・沒弈干との戦い
- 太初四年(391年)春正月、乾帰は詰帰を撃破し、詰帰は隴山へ逃れたが後に帰順したため一族の娘を娶らせ立義将軍とした。秋七月、秦の沒弈干が二子を人質に和を求め共に鮮卑大兜国を討つことを請い、乾帰はこれに応じて大兜を安陽城に攻め、鳴蟬堡に立て籠もった大兜を陥落させた。大兜は変装して逃走し、乾帰は沒弈干の二子を返還したが、沒弈干はまもなく反して東で劉衛辰と結んだ。八月、乾帰は一万騎で沒弈干を討ち、これを目に射抜いた。冬十月、三河王呂光の弟呂寶が虚を突いて金城を攻めると、乾帰は鳴雀峡で敗れ青岸に退いて守った。
呂光軍の撃退
- 太初五年(392年)秋八月、呂寶が再び攻めてくると、乾帰は彭奚念に退路を断たせ自ら甲冑をつけて戦い大破し、寶とその将士で溺死した者は一万余人に及んだ。光がさらに遣わした呂纂も彭奚念に敗れて逃げた。
太子熾磐の登場と対秦関係
- 太初六年(393年)春正月、秦に圧迫された休官権千成が降り東秦州刺史とされた。夏六月、乾帰は子の熾磐を太子に立てた。熾磐は勇略明決で父にも勝ると評された。
- 太初七年(394年)春正月、秦の苻登は乾帰を仮黄鉞・大都督・都督隴右河西諸軍事・左丞相・大将軍・河南王とし秦梁益涼沙五州牧を領させ九錫の礼を加えた。夏六月、姚興に圧迫された苻登は子の汝陰王崇を人質とし救援を求め、乾帰を梁王に進封し妹の東平長公主を梁王后に納めさせた。乾帰は救援に向かわせたが登が秦(後秦)に殺されたと聞き引き返した。
- 冬十月、苻崇は隴西王楊定のもとへ逃れ、定は司馬邵疆に秦州を守らせ四万の歩騎で崇と共に乾帰を攻めた。乾帰の遣わした軻弾・益州・詰帰は当初平川で敗れかけたが(詳細は翟瑥伝に見える)、翟瑥の奮戦により盛り返し定を大破、定と崇を斬り一万七千を捕らえ、隴西・巴西の地を尽く得た。
秦王への即位と呂光との対峙
- 太初八年(395年)春正月、乾帰は自ら秦王を称し境内の死刑以下を大赦、太子熾磐を尚書令とするなど魏武・晋文の故事に倣い百官を整えたが、なお大将軍・大単于を称した。夏四月、索虜禿髪如苟が二万戸を率いて降った。六月、西城に遷都した。
- 秋七月、三河王呂光が十万の兵で来攻すると、左輔将軍宻貴周・右衛将軍莫者羖羝は「陛下は世に抜きん出た資質で洮罕に覇業を開き威を遠近に振るわれた、小事のために姦豎と一時を争うべきではありません、愛子を送って退けるべきです」と進言し、乾帰は光に称藩して子の勑勃(載記には勃勃に作る)を人質に送ったが、まもなくこれを悔い宻貴周と羖羝を殺した。
秦への服属と内紛
- 太初九年(396年)春正月、休官権万世が降った。冬十月、涼州牧乞伏軻弾と秦州牧乞伏益州が不和になり軻弾は涼へ逃れた。この年、乾帰の立義将軍越質詰帰は二万戸を率いて秦(後秦)へ降り、顕親公権千成も秦への攻撃に失敗して降った。
呂光の再攻撃と呂延の戦死
- 太初十年(397年)春正月、呂光は乾帰の裏切りを怒り呂延を先鋒に攻めてきたが、群臣が東の成紀への避難を勧める中、乾帰は「曹操が官渡で袁紹を破り陸遜が白帝で劉備を摧いたのも権略によるものだ、勝敗は巧拙にあり衆寡にはない、光の精鋭はすべて呂延の下にある、延は勇だが謀がなく奇策で制しやすい、延の軍が敗れれば光も退くだろう」と述べた。二月、光の子呂纂は金城を陥落させ、梁恭らも東から攻め、呂延は臨洮・武始・河闗を陥落させたが、乾帰は「凉軍は四方から迫るが互いに遠く隔たり山河に阻まれ連携できない、一軍を破れば残りは自ら退く」と反間の計を用い、延を「乾帰の軍は崩壊し東の成紀へ逃げた」と偽り信じさせて誘い出し、これを大破して延を陣中で斬った。
- 夏六月、乾帰は屋列破光(一に屋弘)を河州牧、翟瑥を晋興太守として枹罕を鎮めさせた。冬十月、秦の姚珍が来降した。
吐谷渾遠征と諸部族の帰順
- 太初十一年(398年)春正月、乾帰は益州に涼の支陽・鸇武・允吾を攻めさせ一万余を捕らえた。夏六月、禿髪烏孤が和親を求め、涼の郭黁が来降した。秋九月、乾帰は益州・慕兀(載記には慕容允に作る)・翟瑥に二万騎で吐谷渾を討たせ、冬十月、度周川で視羆を大破すると、視羆は白蘭山に退いて謝罪し子の宕豈を人質として差し出した。
- 太初十二年(399年)夏四月、鮮卑畳掘河内が五千戸を率いて降った。秋七月、丞相出連乞都が没した。
遷都と後秦との対立
- 太初十三年(400年)春正月、金城の南景門が理由なく崩れたことを忌み苑川へ遷都した。夏五月、秦の姚興が姚碩徳に五万の兵を率いさせ攻めてくると、乾帰は隴西で迎え撃った。秋七月、乾帰は「今こそ姚興を斬れば関中はすべて我が有となる」と諸将を励まし持久策を取ったが、大風と濃霧により本隊とはぐれ追撃を受けて敗れ、部衆三万六千は秦に降った。
河西への亡命
- 乾帰は金城へ逃れ、豪帥たちに「私の才は世に及ばずお前たちに推されながら、乗るべき位に堪えず今日の敗北を招いた、私は允吾を保って鋭鋒を避けたい、お前たちはここに留まり秦に降って妻子を守れ」と告げたが、皆「陛下と生死を共にしたい」と願い出た。乾帰は「興亡は天命だ、天がもし私を見捨てていなければいつか旧業を復し再会できよう、お前たちは自愛せよ、私はこれから人に寄食して余生を終えよう」と述べて大いに泣いて別れ、数百騎で允吾に至り武威王利鹿孤に降伏を請うた。利鹿孤は車騎傉檀を遣わして迎え晋興に置き上賓の礼で遇した。
- 秦軍が退くと南羌梁弋らがひそかに乾帰に再挙を促したが、これが利鹿孤に発覚し、乾帰は殺されることを恐れ太子熾磐に「利鹿孤は義理ある仲間だったのに恩義を忘れ我ら父子を謀ろうとしている、今、姚氏は強盛だ、私は彼らのもとへ帰ろう、皆で共に行けば追手に捕らわれるだろう、お前たち兄弟と母を人質として送れば彼らは疑うまい、私が長安にいる限り彼らもお前たちに害を加えることはできまい」と告げ、熾磐兄弟を西平へ送った。八月、乾帰は南の枹罕へ逃れ、ついに秦へ降伏した。冬十一月、乾帰は長安に至り、姚興は大いに喜んで持節・都督河南諸軍事・鎮遠将軍・河州刺史・帰義侯に任じた。まもなく熾磐が父のもとへ逃れようとして利鹿孤に捕らえられたが、広武公傉檀が「子が父の元へ帰るのを深く咎めるべきではない、寛大さを示すべきだ」と勧め、利鹿孤はこれに従った。
苑川への帰還と勢力の再興
- 太初十四年(401年)春二月、秦の姚興は乾帰を苑川へ戻し旧部衆を与えた。太初十五年(402年)夏四月、熾磐は西平から苑川へ逃れ帰り、南涼王傉檀もその妻子を返した。乾帰は熾磐を秦に朝見させ、興は振忠将軍・興晋太守に任じ、さらに乾帰にも散騎常侍・左賢王を加えた。
- 太初十六年(403年)秋七月、秦は乾帰の兵を斉難らに従わせ河西から呂隆を迎えさせた。冬十一月、反乱した羌の党龍頭を滋川で討った。太初十九年(406年)秋九月、仇池の楊盛の将苻帛を皮氏堡で破ったが、盛の救援を受け竹嶺で敗れた。
吐谷渾樹洛干の台頭
- 晋の義熙元年(405年。これより四年間は建康年号に従う)春正月、乾帰は秦に朝見した。吐谷渾の大孩(一名烏紇堤)がたびたび境を侵したため乾帰は大破しこれを追い、大孩は南涼に逃れて死んだ。視羆の世子樹洛干は残兵数千家を率いて莫何川に至り大都督・車騎大将軍・大単于・吐谷渾王を自称し「戊寅可汗」と号し、部衆はよく治まり周辺諸族もこれに帰附した。樹洛干は「我が先祖がここに逃れて七世、今こそ士馬盛んで梁益に威を振るい西戎の覇者となり三秦に兵を示し天子に朝見しよう」と宣言し、衆は皆賛同した。乾帰はこれを聞いて大いに忌み嫌った。秋八月、乾帰は仇池を攻めて楊盛に敗れたが、まもなく盛の将楊玉を西陽堡で破った。
天変地異と後秦への抑留
- 義熙二年(406年)秋七月、苑川で地震があり毛の生えた裂け目ができ、狐や雉が寝室に入り込み草がことごとく逆さに生えるという凶兆があり、乾帰はこれを深く忌んだ。冬十二月、再び秦に朝見した。
- 義熙三年(407年)春正月、秦の姚興は乾帰が強大になり制しがたく西州の患いとなることを恐れ、朝見の機会に乾帰を主客尚書として留め置き、世子熾磐を建武将軍・行西夷校尉として部衆を監撫させ苑川を鎮めさせた。秋七月、禿髪傉檀が秦に反すると熾磐を誘う使者を送ったが、熾磐はその使者を斬って長安へ送り秦に称賛された。冬十一月、秦の河州刺史彭奚念が反して禿髪傉檀に降ると、秦は熾磐を行河州刺史とした。
熾磐の自立への布石
- 義熙四年(408年)夏五月、秦は乾帰を鎮遠将軍として広平公弼らに従わせ傉檀を襲わせた。冬十月、熾磐は秦の政治が衰え兵乱の兆しがあることを見て取り、秦の攻撃も恐れて諸部族二万七千を糾合し嵻㟍山に築城して拠った。十一月、熾磐は枹罕の彭奚念を攻めたが敗れて退いた。
枹罕奪取と乾帰の逃亡
- 更始元年(409年)春三月、熾磐が秦の上邽に朝見に赴いた隙に彭奚念が襲おうとしたため、熾磐は怒って引き返し奚念を破って枹罕を包囲した。乾帰は秦王興に従い平涼にいたが、熾磐が枹罕を陥落させ使者で知らせると乾帰は苑川へ逃げ帰った。鮮卑大悦堅が五千の衆を率いて降った。
- 夏四月、乾帰は枹罕に赴き熾磐に守らせ、部衆二万を収めて度堅山に遷都した。
秦王への再即位
- 秋七月、群臣は乾帰に王を称するよう勧め、乾帰は寡弱を理由に固辞したが、群臣は袁紹・曹操・新の末世・光武帝の故事を引いて「天命は虚しく待つべきでなく符籙は妄りに期待すべきでない、姚氏の運もまもなく尽きる、今の兵三万でも秦隴を治め洮河を清められる、陛下は運に応じて再興すべきだ、四海が仰ぎ望んでいるのになぜ謙遜に固執し社稷を本としないのか」と強く求めた。乾帰はこれに従い、晋の義熙五年(409年)秦王を僭称し境内を大赦し更始と改元、百官を置き公卿以下をみな元の地位に復させた。冬十月、夫人邊氏を王后に、世子熾磐を太子・冠軍大将軍とし、都督中外諸軍・録尚書事を兼ねさせ、屋引破光を河州刺史として枹罕を鎮めさせ、南安の焦遺を太子太師として国の大謀に参画させ、その子華を尚書民部郎に記録した。
更始年間の攻勢
- 更始二年(410年)春正月、熾磐を遣わして薄地延を討諭させ、地延は衆を率いて降った。三月、隴西の羌昌何に秦の金城郡を攻めさせこれを抜いた。秋七月乙丑、乾帰は越質屈機ら十余部を討ちその二万五千の衆を苑川に移した。八月、再び苑川に都した。九月、秦の略陽・南安・隴西の諸郡を攻め全て陥落させ、一万五千戸を苑川と枹罕に移した。冬十月、鮮卑僕渾・羌句豈輸報鄧若らが二万戸を率いて降った。
更始三年の攻防と再度の対秦服属
- 更始三年(411年)春二月、乾帰は鮮卑僕渾部を度堅城に移し子の勑勃を秦興太守としてこれを撫めさせた。秦の姚興は西征する力がなく辺境の患いを恐れ太常索稜を遣わし乾帰を説得、乾帰は感激して掠めた守宰を返還し降伏を請い、秦は乾帰を征西大将軍・河州牧・大単于・河南王、太子熾磐を鎮西将軍・左賢王・平昌公に任じ、乾帰は河右を図る思惑からこれを受け再び秦に称藩した。
- 夏四月、羌句豈らの部衆を畳蘭城に移し甥の阿柴を興国太守とした。五月、子の木奕干を武威太守として嵻㟍城を鎮めさせた。秋七月、熾磐と次子審虔に一万の歩騎を率いさせ禿髪傉檀を討たせ、八月には傉檀の太子虎台を嶺南で破り牛馬十万余を得た。冬十月、秦の略陽太守姚龍を柏陽堡で破り、十一月には南平太守王憬を永洛(一に水洛)城で破り、あわせて民数千戸を苑川・譚郊に移した。十二月、枹罕に拠った西羌彭利髪を攻めたが陥落させられなかった。
乾帰の死
- 更始四年(412年)春正月、乾帰は再び利髪を討ち、利髪は部衆を捨てて南へ逃げたが甥の公府に追われ清水で斬られた。乾帰は枹罕に入り羌戸一万三千を収め審虔に守らせて帰った。二月戊巳、譚郊に遷都し熾磐に苑川を守らせ、自ら二万騎を率いて吐谷渾の支統阿若干を赤水で大破すると、樹奕干は降伏を請い官爵を授けられた。夏五月、熾磐は禿髪傉檀の三河太守呉陰を白土で破った。
- 六月、乾帰が五谿で狩りをした際、梟が手に止まるという凶兆を大いに忌んだが、まもなく甥の公府に弑逆され、他の子十余人も殺された。公府は大夏に逃れて拠ったが、熾磐の遣わした弟智達・木奕干らに討たれ、公府は畳蘭城、さらに嵻㟍南山へ逃れたが捕らえられ、その子四人とともに譚郊で車裂きの刑に処された。
- これより先、乾帰がまだ生きていた頃、枹罕・金城に数万匹の鼠が現れ、それぞれ馬糞をくわえて群れをなし洮水・灑水の二川を渡って枹罕で止まったという前兆があったが、二年後に熾磐が果たしてそこへ遷り住むこととなった。八月、乾帰は枹罕に葬られ、偽って武元王と諡し廟号を高祖とした。在位二十四年であった。