十六国春秋後涼錄三 呂隆

呂光の弟である右将軍呂寶の子で、字は永基の呂隆。容姿美しく騎射に優れた。弟の呂超が呂纂を殺した後に位を譲られ、天王に即位して神鼎と改元した。残虐な統治で人心を失い、後秦の姚碩徳に姑臧を包囲されて降伏、大飢饉で国は疲弊した。南涼・北涼の圧迫を受けて一万戸を率い長安へ東遷し、後涼は滅亡した。のち姚興に殺された。

年表(9件)

即位の経緯

  • 呂隆、字は永基。光の弟右将軍寶の子である。容姿は美しく騎射に優れ、光の晩年に北部護軍を拝命し次第に顕職を歴任し名声が高まった。呂超がすでに纂を殺すと位を隆に譲ったが、隆は難色を示した。超は「今、龍に乗って天に上るようなもの、途中で下りられましょうか」と述べ、隆はついに晋の安帝隆安五年(401年)春二月、天王に即位した。超が番禾で得た小鼎を神瑞として境内を大赦し神鼎と改元した。父の寶を文皇帝、母の衛氏を皇太后、妻の楊氏を皇后と追尊し、佐命の勲があった弟超を使持節・侍中・都督中外諸軍事・輔国大将軍・司隷校尉・録尚書事・安定公とした。

内政の乱れと後秦への降伏工作

  • 二月、右僕射楊桓は河西へ逃れ利鹿孤に仕え左司馬に任じられた。利鹿孤が攻めてくると隆はこれと戦って敗れ、民二千余戸を掠め取られた。夏五月、隆は残虐で際限なく豪族名望家を殺して威を立てようとしたため、内外は恐れ人々は自らを保てなくなった。魏安の人焦朗は秦の隴西公姚碩徳に「呂氏の兄弟相攻める乱れに乗じ、生霊の苦しみを救い善政を布くべきです、簒奪の混乱に乗じるのは今しかありません」と説き妻子を人質に差し出したため、碩徳は歩騎六万を率いて討伐に赴いた。

後秦軍の来襲と姑臧籠城

  • 秋七月、碩徳は金城から黄河を渡り姑臧に至った。隆の遣わした輔国大将軍超・龍驤将軍邈らは大敗して失った兵は数万に上り、巴西公他は東苑の兵二万五千を率いて秦に降った。姑臧は包囲されて数ヶ月に及び、城内では内応を謀る動きや隆・超の殺害を謀る動きも起こり、発覚して連座三百余家が誅殺された。

呂超の説得と降伏の決断

  • 群臣は秦との和議を求めたが隆は許さなかった。安定公超は「孫権が魏に身を屈し譙周が主に降伏を勧めたのも大丈夫の道である、張天錫のような大国も秦軍が国境に至れば降伏を勧められた、諌めに逆らい固執すれば社稷は廃墟となる、卑辞を用いて敵を退け後に徳政を修めれば興廃は人によるもの、何の損があろうか」と諌めた。隆は「先祖の業を人に委ねるとあれば先帝に地下で顔向けできない」と応じたが、超はさらに「百姓は飢えて餬口の計もありません、張良・陳平・韓信・白起がいても施す術がないでしょう、天命がもし去っているのであれば、それでも宗族を保全することができます、座して困窮を守るのみでどうなさるおつもりですか」と説き、隆はついにこれに従った。
  • 九月、使者を遣わして秦に降伏を請うと、秦は隆を使持節・鎮西大将軍・都督河西諸軍事・涼州刺史・建康公に任じてこれを称え、隆は母弟や愛子・文武の旧臣ら五十余家を秦へ人質として送った。

諸勢力との攻防

  • 冬十二月、安定公超は魏安の焦朗を攻めたが、河西王利鹿孤の援軍傉檀により王集の軍が撃破され兵士三百余人を失った。隆は恐れてひそかに傉檀と和を通じようとしたが、盟約の使者鎮北俱延が伏兵を疑って苑の垣を壊し脱出しようとして襲われ、傉檀は怒って昌松太守孟褘を顕美で攻め、隆の救援も傉檀の強さを憚って逃げ帰り、顕美は陥落し孟褘は捕らえられた。

神鼎年間の飢饉と困窮

  • 神鼎二年(402年)春二月、姚興は隆の弟超を人質として召した。沮渠蒙遜の来攻を隆は自ら撃破し、蒙遜は盟約を結び穀物一万余斛を留めて飢えた人々を賑わした。この時、姑臧は大飢饉となり斗米が銭五千文にまで高騰し、人々は互いに食い合い餓死者は十余万人に上った。百姓は城を出て奴婢になることを願う者が日に数百人あったが、隆はこれが人心を動揺させることを憎み、ことごとく生き埋めにし、積み重なる屍は路上に満ちて戸を絶やした家は十のうち九に及んだ。

東遷と後涼の滅亡

  • 神鼎三年(403年)秋七月、河西王傉檀と沮渠蒙遜がともに兵を出して隆を攻めた。隆は二つの敵の圧迫を受け、超に珍宝を多く携えて秦に迎えを請わせた。姚興の軍が姑臧に至ると、隆は素車白馬で道端に出迎えた。隆は呂胤に光の廟へ「子孫が不肖にして簒奪と弑逆を繰り返し、二虜に交々迫られ東京(長安)へ帰ります」と告げさせ、すすり泣き慟哭したため秦の軍もこれに感じ入った。隆はついに宗族・僚属・民一万戸を率いて東へ遷り、長安に至ると興は隆を散騎常侍・尚書公として以前のままとした。
  • そもそも郭黁がかつて「呂に代わるのは王である」と言っていたが、隆が東へ遷った後、その地を継いだのが王尚であったことも、結局この言葉の通りとなった。その後、隆は姚興の子廣平公弼と謀反したかどで興に殺された。
  • 呂光は孝武帝太元十一年(386年)、丙戌の歳に涼州に拠り、隆の滅亡に至るまで凡そ十八年、癸卯の歳(403年)、安帝の元興二年に後涼は滅んだ。