生い立ちと即位までの経緯
- 呂纂、字は永緒。光の庶長子で母は趙淑媛。性格は粗暴で若くして弓馬に親しみ鷹犬を好んだ。苻堅の代に太学に入ったが読書を好まず、ただ公侯と交わり声楽に興じることを専らとした。太安元年、堅の乱に際し西の上邽に逃れ姑臧に転じ、虎賁中郎将・秦州刺史を拝命し太原公に封じられた。
- これより先、光は弘を世子に立てようとしていたが、紹が仇池にいると聞いてやめた。弘は紹に含むところがあり、尚書姜紀を遣わして纂に「主上(紹)は暗弱で多難に堪えられません、兄は内外を総攬し威恩は前々から著しい、社稷のために謀るべきです、遠く昌邑王廃立の故事に倣い兄を中宗とするのはいかがでしょう」と密告させ、纂はこれに従った。
- 夜、纂は壮士数百を率いて北城を越え広夏門を攻め、弘は東苑の兵を率いて洪範門を斬った。左衛将軍斉従は剣を抜いて纂を斬ろうとしたが命中せず捕らえられた。紹の遣わした軍勢も、もとより纂を憚っており戦わずして自ら潰れた。纂は青角門から入り謙光殿に登り、紹は紫閣で自殺し、超は広武へ逃れた。
- 纂は弘の兵が強いのを憚り位を譲ろうとしたが、弘は「先ほどは紹が弟でありながら大統を継ぎ衆心が服さなかったからこそ先帝の遺命に背いてこれを廃した、今また兄を越えて立つなど弘の本志ではない、長兄はすでに年長で賢く威名は二寇に震わせている、速やかに大位に即いて国家を安んずべきだ」と述べ、纂はついに天王を僭称し境内を大赦し咸寧と改元した(咸寧元年、399年)。嫡母石氏を王太后、生母趙氏を太后とし、常山公弘を大都督・大司馬・車騎大将軍・司隷校尉・録尚書事として番禾郡公に改封し、忠節を評価した呂超の爵位も回復させた。
呂弘の反乱と鎮圧
- 咸寧二年(400年)春三月、大司馬番禾公弘は自らの功名が重いことから纂に容れられないことを恐れ、纂もまた弘の功高く地位が迫っていることを深く忌み嫉んでいた。弘は東苑の兵で反乱を起こし纂を攻めたが、纂の遣わした将軍焦辨に撃たれ軍は潰えて広武へ逃れた。
- 纂は兵を放って大いに掠奪させ、東苑の婦女をことごとく軍に賞として与え、弘の妻子も士卒に辱められた。纂が「今日の戦いはどうであったか」と笑って問うと、侍中房晷は「天禍が涼室に下り釁は近親から起こりました、山陵の儀もようやく終わったところで大司馬が疑心から反逆を起こし京邑に血が流れました、これは陛下に棠棣(兄弟の情)の恩がなかったことも一因です、自らを省み責めて百姓に謝すべきなのに、かえって兵を放って大掠奪し士女を辱めるとは、釁は弘から起こったとはいえ百姓に何の罪がありましょうか。しかも弘の妻は陛下の弟の妻、弘の娘は陛下の姪です、なぜ無頼の小人に汚辱させるのですか」と涙ながらに諌め、纂は表情を改めて謝し、弘の妻子を東宮に移して厚く遇した。
- 弘は禿髪利鹿孤のもとへ逃れようとして広武を通り過ぎる際、征東将軍方(弘の叔父)に会うと、方は大いに泣いて「天下はこれほど広いのに、お前はなぜここまで至ったのか」と言い、弘を捕らえて獄に繋ぎ纂に急報した。纂は力士康龍を遣わしてこれを引き裂き殺させた。この月、妃楊氏を皇后に立てた。
禿髪氏との戦いと国内の動揺
- 夏四月、纂が禿髪利鹿孤討伐を計画すると、中書令楊頴は「兵を興すには天人に照らして考えるべきで、時機を得なければ聖賢もこれを行いません、利鹿孤は上下ともに命に従い国にまだ隙がありません、まず甲を修め鋭気を養い機を待つべきです」と諌めたが、纂は従わず衆を率いて浩亹河を渡り、利鹿孤の弟傉檀の迎撃を受けて士卒二千余人を失った。
- 六月、纂が張掖を西へ襲おうとすると、尚書姜紀は「今は盛夏で農事の最中、軍が嶺西に至れば虜は虚に乗じて都下を侵すでしょう」と諌めたが、纂は「虜には大志がない、速やかに襲えば志を得られる」と述べ、進軍して張掖を包囲し建康の地を攻略した。傉檀は一万騎で姑臧を襲い、纂の弟隴西公緯は北城に拠って自守したが、傉檀は八千余戸を掠めて去り、纂はこれを聞いて軍を引き返した。秋九月、征東将軍方は広武の民三千余戸を率いて利鹿孤のもとへ奔った。
妖異と鳩摩羅什の警告
- この年、豚が一身三頭の子を産み、また龍が井戸から出て殿前にとぐろを巻いて臥し夜明けに姿を消すという怪異があった。纂はこれを瑞祥として大殿を龍翔殿と名づけ、黒龍が通り過ぎたとされる門も龍興門と改称した。鳩摩羅什だけはこれを災いと考え「龍は陰類のもので出入りには時があるものです、たびたび姿を現すのは下の者が上を謀る変事の兆しでしょう」と告げたが纂は聞き入れなかった。
- 涼州(一に「即序」に作る。意味は未詳)の人胡拠(一に「胡安枚」)が張駿の墓を盗掘し、駿の遺体はなお生けるがごとくで、真珠の簾箔・雲母の屏風・瑠璃の榼・玉の樽・玉の簫笛・珊瑚の鞭・瑪瑙の鐘など数え切れぬ珍宝が見つかった。纂は胡拠の一党五十余家を誅殺し、使者を遣わして張駿を弔い墓を修繕させた。
咸寧三年の荒淫と諫言
- 咸寧三年(401年)、纂は昏虐で気ままに振る舞い、狩猟に際限なく耽り酒色に溺れて政務を顧みなかった。太常楊頴は「大業はすでに成った以上、これを道をもって守るべきです、蒼生を荼毒(一に「蓼」)から救うべきなのに、かえって酒を過ごし宴安に耽り寇讐への備えを顧みない、糟丘酒池の故事はみな陛下の殷鑒とすべきです」と諌め、纂は「朕の罪である」と謝したものの、結局改めなかった。
- 常に左右とともに酔いに任せ馬を馳せ狩猟に興じた。殿中侍御史王回・中書侍郎王儒は「千金の子は堂の端に座らず、万乗の主は道を清めてから行きます、輿輦の安全を捨てて疾駆の危険を冒すべきではありません」と諌め「陛下には遠くお考えいただき袁盎が轡を引いた諫言の故事に倣ってほしい」と訴えたが、纂は聞き入れなかった。
呂超による誅殺と後涼の動揺
- 番禾太守呂超(光の弟宝の子)が勝手に鮮卑思盤を撃ち、思盤が纂に訴えたため、纂は超と思盤をともに召して朝見させた。超は大いに恐れ殿中監杜尚に深く取り入った。纂は超を怒って責めたが実際には脅すのみで殺す意図はなく、超・思盤や諸臣を招いて内殿で宴を開いた。超の兄で中領軍の隆はしきりに纂に酒を勧め、纂が酔いつぶれる頃、車で超らを禁中に連れて遊覧させたが、琨華堂東閣で車が通れなくなった隙に、超は剣を取って纂を刺し貫き、纂は宣徳堂へ逃げようとしたが果たせず絶命した。
- 将軍魏益は纂の首を斬り取って「纂は先帝の命に背き太子を殺して自立し、酒と狩猟に溺れ忠良を軽んじ百姓を草芥のように扱った、番禾太守超は社稷の顛覆を恐れ人心に順ってこれを除いた」と布告した。纂の在位は三年であった。
- 纂がまだ死ぬ前、鳩摩羅什と博戯を共にした際、羅什の子が「胡奴の頭を斬れ」と言ったのに対し、羅什は「胡奴の頭を斬ることはできない、胡奴が人の頭を斬るだろう」と述べていたが、この言葉の意味を纂は悟れなかった。光の弟宝の子である超の小字は胡奴といい、ついに纂を殺すこととなり、羅什の言葉の通りとなった。隆が位を簒奪し、纂を偽って霊皇帝と諡し墓号を白石陵とした。