十六国春秋呂纂
要約
呂纂は字を永緒といい、光の庶長子である。性は粗暴だが弓馬に長じた。光は当初弘を世子に立てようとしたが紹を優先し、弘は紹に憾みを抱いていた。呂紹が即位すると、弘は尚書姜紀を通じて纂に密告し、纂は壮士数百を率いて宮城を襲い紹を自殺に追い込んだ。弘に位を譲ろうとしたが弘が「先帝の遺命に違って紹を廃した」ことを理由に固辞したため、纂が天王位に即き咸寧と改元した。叔父の征東將軍方には超の忠節を認めてその爵位を復させるなど懐柔にも努めた。
咸寧二年、自らの功名が纂に忌まれることを恐れた弘が東苑の兵で乱を起こし、尹文・楊桓を刼して謀主としたが敗れ、纂は兵を放って大掠し、弘の妻子も辱められた。妃楊氏を皇后に立て、中書令楊頴の諌めを退けて秃髪利鹿孤討伐を行ったが浩亹河で敗れた。侍中房晷は「釁は戚藩から起きたのに百姓に何の罪があるか」と切諌し、纂は改悛して弘の妻子を厚く撫したが、逃亡先で叔父の征東將軍方に捕らえられた弘は結局纂の命で拉殺された。纂は南涼の秃髪利鹿孤をたびたび攻めたが浩亹河で大敗し、また張掖・建康を攻めた際には南涼傉檀に姑臧を襲われるなど、河西の攻略戦でも国力を消耗した。この頃、猪が三頭一身の子を生み黒龍が出現するなど怪異が相次いだが、鳩摩羅什が凶兆と警告したにもかかわらず纂は美瑞と考え宮殿名を改めた。
鳩摩羅什や楊頴らの諫言にもかかわらず纂は酒色と田猟に耽り、馬で坑塹に落ちかけても改めず、政事を顧みなかった。咸寧三年、擅に鮮卑を撃った番禾太守超(呂寶の子、小字胡奴)が纂に「斬るべし」と叱責されたことに恐れをなし、殿中監杜尚に結んで、宴の帰りに纂を乗せた車が閣を過ぎられなくなった隙に剣で纂を撃ち、纂は超を捕らえようとしたが逆に刺されて死んだ。将軍魏益多はその首を斬り、超が骨肉の情から先帝の太子紹の仇を討ったと布告した。かつて鳩摩羅什が纂との博戯の折に「胡奴が人の頭を斬ることになろう」と語った不吉な予言が的中する形となった。在位三年で没し、後に隆が即位した後、靈皇帝と諡され墓号は白石陵とされた。
年表
呂纂は字を永緒といい、呂光の庶長子。母は趙淑媛。性は粗暴で武勇に優れたが学を好まなかった。弟の呂弘と結んで呂紹を殺して位を奪い、天王を称して咸寧と改元したが、在位中は昏虐で酒色に耽り、最終的に番禾太守呂超に弑逆された。
現代語訳全文
纂の簒奪と即位
- 呂纂は字を永緒といい、光の庶長子である。母は趙淑媛。纂は性が粗暴で少なくして弓馬に便じ鷹犬を好んだ。苻堅の時、太学に入ったが読書を好まず、ただ公侯と交結し声楽をもって務めとした。太安元年(385年)、堅は乱れ西の上邽に奔ったが、姑臧に転至し虎賁中郎將・秦州刺史を拝し太原公に封じられた。
- これより先、光は弘を世子に立てようとしたが、紹が仇池にいると聞いて止めた。弘はすでに紹に憾みがあり、尚書姜紀を遣わして纂に密告して言った、「先帝は登遐され、主上は闇弱で多難に堪えません。兄は内外を総攝し威恩は素より著れています。宜しく社稷のために計るべきであり、小節に狥うべきではありません。輙ち遠く昌邑を廃する義を追い、兄を中宗となすことは如何ですか」と。纂はこれに従い、そこで夜、壮士数百を率いて北城を踰えて廣夏門を攻めた。
- 弘は東苑の衆を率いて洪範門を斫った。左衞將軍齊從は融明観を守り剣を抜いて纂を斫ったが中たらず擒えられた。紹は武賁中郎開を遣わし禁兵を率いて端門で拒戦させ、驍騎將軍虎は衆二千を率いて赴難した。衆は素より纂を憚っておりみな戦わず自ら潰えた。纂は青角門から入り謙光殿に升った。紹は紫閣で自殺した。超は廣武に奔出した。
- 纂は弘の兵が強いことを憚り位を弘に譲ったが、弘は言った、「先に紹が弟であるにも関わらず大統を承けたことは衆心が順わず、これによって先帝の遺命に違ってこれを廃したのです。今また兄を踰えて立てば、どうして弘の本志であろうか。また何の面目をもって世間に視息できようか。大兄は長にして賢、威名は二寇に振るっています。宜しく速やかに大位に即いて国家を安んじられるべきです」と。
- 纂はそこで弘に出て衆に告げさせて言った、「先帝は臨終にこう詔された」と。羣臣はみな言った、「もし社稷に主があれば、誰が敢えて違わないでしょうか」と、遂に僭して天王位に即き、境内に大赦し元を咸寧と改めた。嫡母の石氏を尊んで王太后とし、生母の趙氏を太后とし、常山公弘を使持節・侍中・大都督・都督中外諸軍事・大司馬・車騎大將軍・司隷校尉・録尚書事に署し封を番禾郡公に改めた。その他の封拝はそれぞれ差があった。
- 叔父の征東將軍方は廣武に鎮していたが、纂は使いを遣わして方に言わせた、「超は実に忠臣義勇で嘉すべきです。ただ国家の大体・権変の宜しきを識っていないだけです。卿は頼みにその忠節を賴りとし世難を誕済せんことを願います。卿はこの意をもって彼を諭されよ」と。超はそこで上疏して罪を陳べ、纂はその爵位を復させた。
咸寧年間の内乱
- 咸寧二年(397年)春三月、大司馬番禾公弘は自ら功名が崇重であることをもって纂に容れられないことを恐れ、纂もまた弘の功が高く地位が逼っていることをもって深くこれを忌嫉した。弘は東苑の兵をもって乱をなし、尹文・楊桓を刼して謀主とし、宗変にともに行くことを請うたが、燮は固くこれを辞し、遂に兵を率いて纂を攻めた。纂は将軍焦辨を遣わしてこれを撃たせ、弘の衆は潰え廣武に奔出した。纂は兵を縦にして大掠し悉く東苑の婦女を軍に賞した。弘の妻子もまた士卒に辱められた。纂は笑って羣臣に言った、「今日の戦いは如何であったか」と。侍中房晷は答えて言った、「天は涼室に禍いし、釁は戚藩から起きました。先帝は始めて崩じ、隠王は幽逼をもって殂に致りました。山陵はやっと訖ったばかりなのに、大司馬は驚疑して逆を肆にし、京邑は血を流し昆弟は刃を接えました。たとえ弘が自らこれを取ったとしても、また陛下に棠棣の恩がなかったことによります。宜しく己を省み躬を責めて百姓に謝すべきなのに、かえって兵を縦にして大掠し士女を囚辱されました。釁は弘より起きたのに百姓に何の罪があるでしょうか。かつ弘の妻は陛下の弟婦、弘の女は陛下の姪女です。どうして無頼の小人にこれを汚辱させることに忍びましょうか。天地神明はどうしてこれを見るに忍びましょうか」と、そこで歔欷悲泣した。纂は容を改めてこれに謝し、そこで弘の妻および男女を召して東宮に置き厚くこれを撫した。弘はまさに秃髪利鹿孤に奔ろうとして道は廣武を過ぎ、征東將軍方に詣った。方はこれに見えて大哭して言った、「天下は甚だ寛いのに、汝はどうしてここに至ったのか」と、そこで弘を執えて獄に繋ぎ馳使して纂に告げた。纂は力士康龍を遣わし就いてこれを拉殺させた。
- この月、妃楊氏を皇后に立て、后の父の桓を散騎常侍・尚書左僕射・涼都尹とし金城侯に封じた。夏四月、纂はまさに秃髪利鹿孤を伐とうとした。中書令楊頴は諌めて言った、「それ師を起こし衆を動かすには必ず天人に参ずべきであり、いやしくもその時でなければ聖賢はこれをなしません。利鹿孤は上下用命し国にはいまだ釁がありません。伐つべきではありません。今、宜しく甲を繕い鋭を養い農桑を勧課し乗ずべき機を待ってから一挙に蕩滅すべきです。比年多事にして公私は罄竭しています。根本を深く固めなければ、患いは将来をなすことを恐れます。願わくは赫斯の怒りを抑え万全の策を思われよ」と。纂は従わず、遂に衆を帥いて浩亹河を渡った。利鹿孤は弟の傉檀を遣わして来拒し三堆で戦い、纂の衆は敗績し士卒二千余人を失った。
- 六月、纂はまさに西して張掖を襲おうとしたが、尚書姜紀は諌めて言った、「今、まさに盛夏で農事はまさに殷なるとき、百姓は農を廃せば利する所は少なく喪う所は多くなります。もし師が嶺西に至れば、虜は必ず虚に乗じて寇掠するでしょう。都下をどうするおつもりですか。宜しくしばらく師を還して後計とすべきです」と。纂は言った、「虜には大志がないと聞く。まさに私が西征したと聞けば、正に自ら固むばかりであろう。今、速やかにこれを襲えば志を得るであろう」と、遂に進んで張掖を圍み建康を略地した。傉檀はこれを聞いて万騎を帥いて姑臧を襲った。纂の弟の隴西公緯は北城に憑って自ら固め、傉檀は青陽門で兵を曜し、虜掠すること八千余戸にして去った。纂はこれを聞いて兵を引いて還った。
- 秋九月、征東將軍方は廣武の民三千余戸を率いて利鹿孤に奔った。この年、猪が子を一身三頭を生み、また龍が東廂の井中から出て殿前に到り蟠卧し、旦に比んで失われた。纂はこれを美瑞と考え大殿を龍翔殿と号した。また黒龍が当陽で行くのがあり、九宮門を改めて龍興門とした。鳩摩羅什だけがこれを灾と考え纂に言った、「このごろ潜龍が出遊し豕妖が現れました。龍は陰類、出入に時があります。今、しばしば現れるのは、災眚をなすでしょう。下人が上を謀る変があるでしょう。己に克ち徳を修めて天戒に答えるべきです」と。纂は納れなかった。
- 涼州(一に即序に作る、いかなる解か分からない)の人胡據(一に胡安枚に作る)は張駿の墓を盗掘し、駿の貌は生きているようで、真珠簾箔・雲母屏風・琉璃榼・白玉樽(三升を受くる)・赤玉簫・紫玉笛・珊瑚鞭・馬瑙鍾・黄金勒・水陸竒珍を得て、紀すことができないほどであった。纂は據の党五十余家を誅し、使いを遣わして駿を吊祭しあわせてその墓を繕修させた。
兄弟相殺と纂の死
- 咸寧三年(398年)春二月、纂は昏虐で情のままにふるまい、田を游んで度なく荒酒色に躭って政事を顧みなかった。太常楊頴は諌めて言った、「臣は皇天が監じて監す(見守る)のはただ徳のみと聞いています。徳は人によって弘まり、天は応じて福をもたらします。故に勃焉の美は奄として聖躬にあります。大業はすでに定まりまさに道をもってこれを守るべきです。靈基を日新に廓げ、洪福を万世に邀えるべきです。陛下が龍飛してより疆宇はいまだ闢かれず九州の綱維は振わず、陛下は九夕(夙夜)に兢兢とし四方を経略して先帝の遺志を成し蒼生を荼毒(一に蓼に作る)から拯うことに努められるべきなのに、かえって飲酒過度、出入常なく、宴安游盤の楽・沈湎樽酒の間にありて寇讐を慮とせず、臣は竊かにこれを危ぶんでいます。糟丘酒池・洛汭の返らずは、みな陛下の殷鑒です。臣は先帝の夷険の恩を蒙りましたので、干將の戮(誅殺)を避けようとしません」と。
- 纂は謝して言った、「朕の罪である。直亮の臣がいなければ、誰が邪僻の君を匡そうか」と言ったが、しかし昏虐は自ら任せるままで、この諌があってもついに改めることができなかった。つねに左右とともに酔いに因って馳騁遊猟し、あるいは馬が坑塹の間に奔ることがあった。殿中侍御史王回・中書侍郎王儒は馬を控えて諌めて言った、「千金の子は堂に垂して坐せず、万乗の主は道を清めて行きます。どうして輿輦の安を去って奔馳の危を冒されるのでしょうか。銜橜の変は不測の禍いを動かすもので、愚臣は竊かに未だ安んじられません。あえて死をもって争います。願わくは陛下遠く思われ(『涼州記』には「遠思」の二字を「宜憶」に作る)袁盎攬轡の言を思われよ。臣らに千載の譏りを受けさせないでいただきたい」と。纂は納れなかった。
- 纂の番禾太守超が擅に鮮卑の思盤を撃つと、思盤は弟の乞珍を遣わして超を纂に訴えた。纂は超および思盤を召し入朝させた。超は姑臧に至って大いに懼れ、深く自ら殿中監杜尚に結んだ。纂は超に見えて怒りこれを責めて言った、「卿は兄弟の桓桓(勇猛の様)を恃んであえて吾を欺くのか。要ずまさに卿を斬って天下を定むべきである」と。超は頓首して言った、「敢えて」と言った。纂はもとより超を恐愒させただけで実にこれを殺す意はなかった。そこで超・思盤および諸臣を引いて内殿で共に讌した。超の兄の中領軍隆はしばしば纂に酒を勧め、已に昏酔に至った。歩輦車に乗り超らを将いて禁内を遊ばせ、琨華堂東閣に至ると車が過ぎることができなかった。纂の親しい将の竇川・駱騰は剣を壁に倚らせ車を推して閣を過ごうとした。超は劒を取って纂を撃った。
- 纂は車を下って超を擒えようとしたが、超は纂を刺し胸を洞かし宣德堂に奔った。川・騰は超と格闘して超はこれを殺した。纂の妻楊氏は禁兵に超を討たせようとしたが、杜尚がこれを止め、みな兵舎仗を納れた。将軍魏益多は纂の首を斬り取って狥に示して言った、「纂は先帝の命に違い太子を殺して自ら立ち、荒酒を躭り酒獵にふけり小人を昵近し忠良を軽害し、百姓を草芥となしました。番禾太守超は骨肉至親として社稷の顛覆を懼れ、人心に順ってこれを除きました。上は宗廟を安んじ下は太子(紹)の仇に報いるためです。凡そ我が士庶よ、これを休慶に同じくせよ」と。
- 纂は在位三年で死んだ。纂が未だ死なないとき、かつて鳩摩羅什と博戯し、あるいは共に囲碁を打ち、羅什の子を殺すことを「斫胡奴頭」と言ったところ、羅什は「胡奴の頭を斫ることはできまい。胡奴がまさに人の頭を斫ろうとしている」と言った。この言には為があったが、纂は悟ることができなかった。光の弟の寶には超という子があり、小字を胡奴といい、竟に纂を殺すことになり什の言のとおりとなった。隆が位を簒するに及んで纂を偽って諡し靈皇帝とし、墓号を白石陵とした。