十六国春秋後涼錄二 呂紹

即位と兄への譲位申し出

  • 呂紹、字は永業。光の嫡子である。麟嘉元年、母の石氏とともに仇池から至り世子に立てられ、光の天王即位に伴い太子に進められた。
  • 光の死後、紹は喪を秘して発表しなかったが、庶兄の太原公纂が扉を排して入り哭泣を尽くし、衣を払って出ようとした。紹は纂に害されることを恐れ位を譲ろうとし「兄は功高く年長です、大統を継ぐべきです」と述べたが、纂は「私が年長といえども陛下こそ国家の嫡子です、私愛によって大倫を乱すことなどできましょうか」と固辞し、紹はやむなく即位した。

呂超の諌言と紹の躊躇

  • 驍騎将軍呂超は紹に「纂は長年軍を統率し威は内外に震っています、喪に臨んでも哀しまずその挙動は常軌を逸しているようです、大変事になる恐れがあります、早く除いて社稷を安んずべきです」と進言したが、紹は「先帝の遺命が耳に残っている、兄弟は至戚でありまさかそのようなことがあろうか、私は若年で大任を負い二人の兄を頼みにしている、たとえ図られようとも死を帰するがごとく受け入れる、決してそのような考えは持たない」と応じた。超は「纂の威名は前々から著しく無情な性格です、今図らねば後に必ず後悔します」と重ねたが、紹は「私は袁尚兄弟のことを思うたび心を痛める、座して死ぬとも決して行いはしない」と述べ、超は「陛下が機に臨んで断じなければ大事は去りましょう」と嘆いた。

呂纂による攻撃と紹の自害

  • まもなく纂が湛露堂で紹に謁見した際、超は刀を執って側に侍り目で捕らえるよう促したが紹は許さなかった。纂はついに常山公弘とともに壮士数百を率いて紹を攻め、紹は紫閣に登って自殺した。死後、隠王と追諡された。
  • これに先立ち、光がまだ死なぬ頃、都の街で「兄弟相滅ぼす」と叫ぶ鬼がいたが、吏が調べても何も見えなかったという。その年、光が死に紹は立って五日で纂に殺された。