十六国春秋後涼錄一 呂光
略陽の氐人で、前秦の太尉呂婆楼の子である呂光(字は世明、338–399年)。王猛に見出されて苻堅に仕え、張平・苻双・苻洛らの討伐に功を重ねた。苻堅の命で西域を征し、亀茲を降して鳩摩羅什を得、帰路に涼州を奪って姑臧に拠った。三河王、のち天王を称した後涼の建国者で、諡は懿武皇帝、廟号は太祖。
年表(19件)
- 建武四年338年枋頭に生まれ、神光の瑞にちなみ光と名づけられる
- 建元十九年春正月383年都督西域征討諸軍事として歩騎七万五千で西域へ向かう
- 建元十九年冬十二月383年流沙を渡り、亀茲救援の獪胡の大軍を城西で大破する
- 建元二十年秋八月384年捷報を奏し安西将軍・西域校尉・順郷侯に進められる
- 建元二十一年春正月385年亀茲を平定し、天竺の沙門鳩摩羅什を手に入れる
- 建元二十一年三月385年駱駝二万余頭に西域の珍宝を積んで帰途につく
- 建元二十一年秋九月385年梁熙を破って殺し、姑臧に入って涼州刺史を自ら領する
- 太安元年春正月386年張大豫が鳳凰と改元して対抗するが、姑臧の外で大破する
- 太安元年秋九月386年苻堅が姚萇に殺されたことを知り喪に服す
- 太安元年冬十月386年境内を大赦して太安と改元し、張大豫を姑臧の市で斬る
- 太安元年十二月386年大将軍・涼州牧・酒泉公を自ら称する
- 太安二年387年大飢饉と内乱が相次ぎ、自ら赴いて張掖太守彭晃を誅殺する
- 太安三年388年讒言により功臣杜進を殺すが、段業の諌言を容れて寛簡の政を尊ぶ
- 麟嘉元年春正月389年麟の出現を瑞祥とし、南郊で三河王に即位して麟嘉と改元する
- 麟嘉六年394年西秦の乞伏乾帰が臣従を称して子を人質に出し、兵を引く
- 龍飛元年夏396年五龍出現を瑞祥として天王に即位し、龍飛と改元する
- 龍飛二年397年再び西秦を攻めるが、乾帰の反間により天水公延が大敗し戦死する
- 龍飛三年398年郭黁・楊軌らの反乱で河西は混乱し、太原公纂がたびたび撃破する
- 龍飛四年399年太子紹を天王に立て自ら太上皇帝と号し、この日没する。年六十三
出自と人物像
- 呂光、字は世明。略陽の氐人である。父の婆楼は苻堅を補佐し官は太尉に至った。光は石氏の建武四年(338年)、枋頭で生まれ、夜に神光が現れ一家はこれを異として光と名づけた。十歳の頃、兄弟たちと戦陣ごっこを好み、群童はこぞって彼を主に推したが、その配置は詳細で公平であり皆が感服した。読書を好まず鷹狩りと乗馬を楽しみ、成長すると賢豪と交わり施しを好み士を厚遇した。身長八尺四寸、瞳は重瞳、左肘に肉印(あざ)があり、性格は沈重で質朴(一に「朴」)、寛大で度量があり喜怒を顔に表さなかったため、当時の人々にはその真価を知られなかったが、ただ王猛だけが布衣の頃にこれを見て「これはただ人ではない」と評し苻堅に推挙した。
前秦での軍功
- 賢良に選ばれ美陽令に任じられると夷夏ともにこれを愛し服し隣境も治まった。鷹揚将軍に遷り張平討伐に従軍、銅壁の戦いで平の養子蚝を刺してこれを捕らえ、以後威名が大いに高まった。苻双が秦州で反乱を起こし堅の将楊成世が敗れると、光は王鑒とともにこれを討ち、鑒が速戦を望むのに対し「敵は勝ちに乗じて軽々しく来ている、糧が尽きれば必ず退く、退いたところを撃てば破れる」と慎重な策を説いて的中させ、興軍を撃破した。
- 王猛に従い慕容暐(前燕)を平定し都亭侯に封じられた。苻重が洛陽で謀反を企てると、堅は「長史呂光は忠孝方正、必ず共謀していない」と述べて光に重を捕らえさせた。まもなく太子右率となり厚く親任され、蜀人李焉(一に「烏」)の反乱、苻洛の反乱をいずれも討ち平定し驍騎将軍を拝命した。
西域遠征の発令
- 秦の建元十九年(383年)春正月、堅はすでに山東を平定し西域平定の志を抱き、光を使持節・都督西域征討諸軍事とし、将軍姜飛・彭晃・杜進・康盛(一に「隆」)らに歩兵七万・鉄騎五千を率いさせて西域を討たせた。太子宏は光の手を執って「君の器量は非凡だ、必ず大福があろう」と述べた。高昌に至った頃、堅が晋を侵したと聞き光は命令を待とうとしたが、部将杜進は速やかな進軍を勧めた。
流沙横断と亀茲攻略
- 冬十二月、光は流沙で三百余里にわたり水がなく将士は顔色を失ったが、光は「李広利の精誠が天に通じ泉が湧いた故事のように、皇天は必ず救ってくださる」と述べ、まもなく大雨が降った。焉耆の王泥流は降伏を請うたが、亀茲王帛純(帛は一に「白」)だけは従わなかった。光は城の南に営を築き疑兵を配して持久戦の構えを見せた。
- この時、光の左肘の肉印が「巨霸」の文字をなし、営外に黒龍とおぼしき異形の跡が残るという瑞祥が現れ、杜進は「将軍の道が霊和にかない徳が幽顕に符合している証だ」と喜んだ。攻城の夜、金色の像が城外へ飛び去る夢を見た光は「胡は必ず滅びる」と攻城を急がせた。
- 帛純は獪胡(西域の強国)に厚く賂して救援を求め、獪胡は内外七十余万の大軍を率いて来援したが、光は「彼は多く我は少ない、営を分散させず互いに接続させ鈎鏁の陣を組むべきだ」と述べて城西で大破し、首一万余級を斬った。帛純は逃走し降伏した王侯は三十余国に及んだ。
亀茲の統治
- 光は三重の城壁を持ち長安に匹敵する規模の亀茲城に入城した。塔廟千を数え、葡萄酒や珍しい楽器・歌舞が伝わる豊かな文化に触れ、参軍段業に「亀茲宮賦」を著させて記録させた。諸国は光の威名を憚り朝貢が絶えず、帛純の弟震を亀茲王に立ててその遺民を撫でさせた。建元二十年(384年)秋八月、光は堅に捷報を奏し、使持節・散騎常侍・都督玉門已西諸軍事・安西将軍・西域校尉・順郷侯に進められたが、道が絶えて音信は通じなくなっていた。
鳩摩羅什の獲得
- 建元二十一年(385年)春正月、光はすでに亀茲を平定し天竺の沙門鳩摩羅什を得ていた。羅什はかねて亀茲王に東方からの強敵に恭順すべきと説いていたが用いられず、果たして敗れた。光は羅什の智量を測りかね若年の凡人として戯れに扱い、亀茲王の娘を無理に娶らせようとし、羅什は拒んだが、光は醇酒を飲ませ密室に同閉させ、羅什はやむなくその節を虧損した。牛や悪馬に乗せて落馬させようとしても羅什は忍辱を守り怒りを見せなかったという。
- 帰還の途上、光が山下に軍を留めようとすると羅什は「ここに留まれば必ず狼狽する、軍を隴上に移すべきだ」と告げたが光は聞き入れず、夜に果たして洪水が起こり死者数千人に及んだ。光が西国に留まろうとすると、羅什は「ここは凶亡の地、天運を推せば速やかに東へ帰るべきだ、途中に福地がある」と告げ、光はついに衆議に従い帰還を決めた。三月、駱駝二万余頭に西域の珍宝・奇獣・駿馬を満載して帰途についた。
涼州との対立と姑臧入城
- 秋九月、秦の涼州刺史梁熙は光の帰還を境で拒もうと謀った。高昌太守楊翰は要害を先取りして光を阻むべきと説き、美水令の楊(一に「張」)統も「光は雄果勇毅で智略人に勝り、望郷の兵を擁して戦勝の勢いに乗じている、その鋒には容易に当たれない」として盟主を立て共同で対抗すべきと説いたが、熙はいずれの策も用いず、諌めた行唐公洛を殺した。
- 光は楊翰の謀を聞いて恐れたが、杜進の勧めで進軍を続け、高昌の楊翰は迎え降った。梁熙は光の子呂胤らに五万の兵を授け酒泉で拒がせたが、光は彭晃・杜進・姜飛らを前鋒として大破し胤を捕らえた。武威太守彭済は熙を捕らえて光に迎え、熙は殺された。光はついに姑臧に入り自ら涼州刺史・護羌校尉を領し、諸将にそれぞれ官爵を与えた。
内乱の連鎖
- 主簿の尉祐は姦佞な人物で、光に重用されると名士十余人を讒言して誅殺させ人望を大いに失わせたが、まもなく自らも金城太守として反乱し、従弟の隨とともに討伐される中で味方の離反を招いた。
張大豫の乱
- 太安元年(386年)春正月、かつて張天錫の世子大豫を匿っていた王穆は、魏安の反乱勢力に大豫を主として迎えられ、撫軍将軍・涼州牧を称し鳳凰と改元して光に対抗した。王穆は持久策を進言したが大豫は聞かず姑臧に迫り、光の出撃により王穆・禿髪思復鞬の子奚干(一に「于」)らの軍は大破された。
- 光は「大豫がもし王穆の策を用いていれば平定は難しかっただろう」と述べ、諸将は皇天の加護によるものと賀した。同年秋九月、光は苻堅が姚萇に殺されたことを知り喪に服し、冬十月に境内を大赦して太安と改元、大豫は残党とともに討たれ姑臧の市で斬られた。十二月、光は自ら使持節・侍中・中外大都督・督隴右河西諸軍事・大将軍・領護匈奴中郎将・涼州牧・酒泉公を称した。
太安年間の内憂外患
- 太安二年(387年)、天変地異が相次ぎ、羅什はこれを不祥としつつも「労せずして自ずと定まる」と告げた。涼州は大飢饉に見舞われ人々は互いに食い合う有様となった。西平太守康寧の反乱、別将徐霊と張掖太守彭晃の謀反など内乱が相次ぎ、光は諸将の反対を押し切り「隆替は命である」と自ら討伐に赴き彭晃を誅殺した。
郭瑀の挙兵と悲劇的最期
- 王穆の挙兵に応じた燉煌の処士郭瑀は、義のために兵を挙げ穆を支えたが、穆が讒言に惑わされ同志の索嘏を討とうとするのを諌めて容れられず、絶望して食を絶ち、龍が屋根で止まる夢から自らの死を悟って没した。光は「二虜が互いに攻め合っている、これは好機だ」と述べ酒泉を陥落させ、逃亡した王穆も捕らえられ斬られた。
段業の諌言と讖言
- 太安三年(388年)、光は讒言を信じて功臣杜進を殺したが、段業の「厳刑は明王の道ではない、堯舜に倣ってなお及ばぬことを恐れるべきなのに商鞅・呉起の末法を用いるべきではない」との諌言には表情を改めて謝し寛簡の政を尊んだ。この年、陳平仲(涼州記には陳沖に作る)が玉璽を得て献上し、光が王となるべき讖言が記されていたと伝わる。
三河王への即位
- 麟嘉元年(389年)春正月、麟の出現を瑞祥として群僚の勧進を受け、晋の孝武帝太元十四年二月、南郊で三河王の位に即き麟嘉と改元した。妻子を迎え王妃・世子に立て、太廟の整備や讖言に基づく郡名改称などの内政も進めた。
西秦・北涼方面の攻防
- 麟嘉年間から龍飛年間にかけて、光は西秦の乞伏乾帰と繰り返し戦った。麟嘉六年(394年)にはいったん乾帰が臣従を称し子の勑勃(西秦錄には勃勃に作る)を人質に差し出し光は兵を引いたが、龍飛元年(396年)夏、五龍出現を瑞祥として天王に即位し龍飛と改元すると、翌龍飛二年(397年)に再び西秦を攻め、天水公延の軍が乾帰の反間の計により大敗し延自身も戦死する痛手を被った。
沮渠氏・段業の離反
- 延の敗死後、張掖の盧水胡沮渠羅仇・麹粥兄弟は光の猜疑を恐れて挙兵を勧め合ったが、羅仇は忠孝を貫くとしてこれを退けた。しかし光は結局羅仇・麹粥を殺し、羅仇の甥沮渠蒙遜が挙兵して河西各地を席巻、建康太守段業も蒙遜方に説得されて大都督・涼州牧・建康公を自称するに至った。光の遣わした太原公纂の討伐は蒙遜の後援を受けた業に阻まれた。
郭黁の乱と楊軌の自立
- 光の老齢に乗じ散騎常侍郭黁も反乱し王乞基を主に推戴、後将軍楊軌もまた黁と結んで自立した。光は楊軌に長文の書を送り翻意を促したが応じられず、龍飛三年(398年)には諸勢力が入り乱れて戦い、太原公纂がたびたび撃破するも河西の混乱は収まらなかった。
呂光の死
- 龍飛四年(399年)、光は病篤くなり太子紹を天王に立てて自らは太上皇帝と号し、太原公纂を太尉、常山公弘を司徒として後事を託した。「兄弟が和睦すれば祚は万世に流れるが、内輪で図り合えば禍はすぐに至る」と諭し、纂には「守成は易くない、永業(紹)をよく輔けよ」と戒めてこの日没した。時に晋の安帝隆安三年(399年)、光は年六十三、在位十四年であった。偽って懿武皇帝と諡し、廟号を太祖、墓号を高陵とした。