十六国春秋蜀錄四 譙秀(一作 焦) 字元彦

隠者の節操

  • 譙秀(一に焦とも)、字は元彦、巴西の人。祖父の周は儒学で著名であり蜀の朝廷に名を知られていた。秀は若くして寡黙で世俗と交わらず、天下がまさに乱れることを知り、あらかじめ人との交わりを絶ち、内外の宗親であっても会おうとしなかった。郡が孝廉に、州が秀才に挙げてもいずれも従わなかった。雄が蜀を領有し巴西を得ると、太傅驤とその子の寿はいずれも秀の名声を慕い束帛・安車を備えて招いたが、これにも応じなかった(一に「礼をもって招く者もあれば威をもって迫る者もあったが、秀は最後まで命に応じなかった」ともいう)。常に冠弁をかぶり粗末な衣を着て山中で自ら耕し、龔壮はいつもこれに感嘆していた。
  • 桓温が蜀を滅ぼすと上疏し秀を推薦したが、朝廷は秀が年老いていることと道が遠いことから召さず、使者を遣わし四季ごとに現地で存問させた。まもなく范賁・蕭敬が相次いで乱を起こすと、秀は宕渠の川中に難を避け、郷人・宗族でこれを頼る者は百を数えた。秀の年は八十を過ぎており、人々はその老齢を思い代わって荷を担ごうとしたが、秀はこれを拒み「それぞれに老いや幼子がいるのだから、まずそちらを世話し守るべきだ、私の気力はまだ堪えられる、この朽ちかけた年でみなに負担をかけたくない」と述べた。享年九十余、病もなく卒した。