下辨の敗戦
- 李琀は蕩の長子である。次は稚、次は都、また次は玝という。初め琀は侍中中領軍となり、稚は安東將軍として晉夀に屯した。武都の氐楊難敵が来奔したとき、稚はその賂遺を受けて武都に還らせた。難敵は険を恃んで驕慢となり多く不法をなし、陰平太守羅演(演は稚の舅である)を攻め走らせた。
- 稚は自ら失計を悔い、兄の琀に白し急いで討伐を請うたので、雄はこれを許した。そこで琀と稚および将軍樂次・費佗・李乾らに白水橋から進んで下辨を攻めさせた。征東將軍夀は琀の弟の玝を督させ陰平の難敵を攻めさせたが、難敵は軍を遣わして拒み、夀・玝は進めなかった。琀・稚は徑ちに下辨の武街に至ったが、難敵はその帰路を断って四面から攻め、深入して継援がなく、みな氐の衆に殺され士卒の死者は数千人にのぼった。
- 琀には才望があり雄は嗣として伝えようと志していたが、その死を聞いて深く痛悼し数日食を取らず言えば必ず涙を流した。雄が死ぬと班が偽位を嗣ぎ、玝は期・越とともに喪に来奔した。玝は班に越を還鎮させ、期を出して梁州刺史とすることを勧めたが、班は猶予して未だ許さず、かえって玝を涪城に還鎮させた。期・越は竟に殯次で班を弑し、あわせてその兄の領軍都を殺した。玝は遂に晉に奔り、巴郡・襄陽・宜都太守・龍驤將軍を歴任し、永和三年(347年)、征西(桓温)に従い山陽に至って戦死した。