十六国春秋李蕩

要約

李蕩は字を仲平といい、李特の次子である。学を好み容姿にも優れた。特の挙兵に従い、朝廷の督護衙博・張龜らの軍を撃破して巴西・梓潼を平定するなど各地を転戦し、投降した太守らを寛大に処遇して民心を得た。

特が晋の廣漢太守張微の軍に山中で包囲され窮地に陥った際、蕩は重鎧を着け長矛を持って大呼し必死の突撃で敵陣を突破、父を重囲から救出した。その後、蕩と王幸の進言で微をさらに追撃し、これを巴西で討ち取ってその子を捕らえた。

特が官軍に殺されると、蕩は雄とともに北營を保って抗戦を続けた。羅尚配下の左汜が虚を突いて営を襲い、氐族の裏切りで営が破られかけたが、藥紳を討ち破って帰還した蕩が敵を撃退し危機を救い、大いにこれを破った。

その後、勝ちに乗じて成都に迫る中、逃げる敵を馬で追ううちに矛に刺されて戦死した。雄はその死を秘して発せず衆心を安んじた。雄が成都王として即位すると、蕩には廣漢壯文公が追贈された。母が二人の子(蕩と雄)のうちどちらか先に亡くなった方が大貴となったはずと雄が語ったと伝わり、蕩の死は惜しまれた。

現代語訳全文

蕩の武功と戦死

  • 李蕩は字を仲平といい、特の次子である。学を好み容観があった。特が承制すると鎮軍將軍を拝した。特が初めて称制すると、晉の河間王司馬顒は督護衙博を遣わしてこれを討たせ、進んで梓潼に屯した。朝廷はまた廣漢太守張微を德陽に軍させ、南夷校尉李毅もまた叟兵五千を遣わして益州刺史羅尚を助けた。尚は督護張龜を遣わして繁城に軍させ、三道並進して特の営を攻めた。
  • 特は蕩と雄に博を襲わせ、特は自ら張龜を撃ち、龜の衆は大敗した。蕩はまた博と接戦すること連日、博もまた敗績し死者は大半に及んだ。蕩は博を漢德まで追い、博は葭萌に走った。蕩は転じて巴西を掠め、巴西郡丞毛植・五官襄珍は郡をもって迎え降り、蕩は撫懐して初めて附いた者を安んじ、百姓はこれに安んじた。進んで葭萌を攻めると博はまた遠遁し、その衆はことごとく降った。遂に梓潼・巴西郡を拔いた。
  • 特はそこで進んで張微を攻めた。微は高きに依り険を拠り特と連日相持った。微は特の営が空虚であることを候い歩兵を遣わして山を循ってこれを攻めた。特は逆戦したが利あらず、山険で窮迫し衆はどうしてよいか分からなかった。羅凖・任道はみな引退を勧めたが、特は蕩が必ず来ると量りこれを許さなかった。微の衆はますます多くなり山道はいたって狭く、ただ一二人が行けるだけであった。蕩の軍は前に進めなかった。司馬王幸に言った、「父が深冦の中にある。これが私の死ぬ日である」と、そこで重鎧を着け長矛を持って大呼して直ちに前み鋒を推し必死となり、千余人を殺した。微の衆が来て救おうとするも、蕩の軍はみな殊死戦い一人で百人に当たらない者はなく、微の衆はついに潰え、特を重囲の中から抜き出した。
  • 特は微を釈して涪に還らせようとしたが、蕩と王幸は進んで言った、「微の軍は連戦し士卒は傷残し、智勇ともに困窮しています。その弊に因って一戦してこれを擒とすべきです。もし舎てて寛にすれば、微は病を養い亡兵の余衆を収めてさらに図るのは容易ではありません」と。特はこれに従い、また進んで微を攻め、微は囲みを潰して走った。蕩は水陸から追撃しこれを巴西で殺し、その子の存を生擒し、微の喪をもってこれを還した。
  • その後二年、官兵が特を官桑で殺すと、蕩は雄とともに北営を保った。羅尚は督護張龜・何沖・左汜らを遣わして繁城に軍させ、涪陵の藥紳らは起兵して尚に応じた。蕩は紳を攻めこれを破った。左汜は衆を率いて虚に乗じて営を襲い、氐の符成・隗伯が営中にいて叛いてこれに応じ、営はまさに破れようとしていたが、会たまたま蕩が紳を破って還り適々汜と遇い、遂に大いにこれを破った。成・伯はその党を率いて突出して尚に詣った。蕩は馬を策って追撃したが矛に中って死んだ。雄はこれを秘して喪を発せず衆心を安んじた。雄が成都王位に即くに及んで、廣漢壯文公を追贈した。