郫城攻防戦の武功
- 李驤は字を玄龍といい、慕の少子・特の弟である。驍鋭で武幹があり、諸兄弟らとともに初め県令を殺し楽鄉に屯聚して兵を起こし特に応じた。特が承制すると驍騎將軍を拝し、征伐に従うごとにしばしば戦功を立てた。
- 特が死ぬと雄が立ち、益州刺史羅尚がしばしば郫城を攻めたので、雄は朴泰に尚を誘い郫城を襲わせ内応することを約させた。尚はこれを信じ、泰は火を挙げることを要し隗伯に諸軍を遣わして郫を攻めさせた。驤は外に伏を設け長梯をもって伯の軍を上らせ、伯の軍は火が起きるのを見て梯を争って上ったので、驤はそこで兵を放ってこれを撃ち尚の軍を大破した。
- 遂に犍為を攻め尚の糧道を断ち太守龔恢および功曹楊渙を殺し、進んで益州を攻め別駕許延を殺した。延の妻の杜氏には美色があり、驤はこれを納れて妻にしようとしたが、杜氏は号哭して夫の屍を守り罵って言った、「汝らは逆賊無道なり。死には先後がある。寧ろ久活すべきか。私は杜家の女である。どうして賊の妻となろうか。速やかに私を殺さないのか」と。驤は怒り、遂にこれを殺した。
- 雄が王位に即くと驤を太傅とした。晉の永嘉四年(310年)、梓潼内史譙登が涪城に拠っていたが、時に羅尚が死に長沙太守皮素が代わって治め三闗に進んだ。驤は登を急いで攻めた。素は張順・楊顯に勅して登を救わせたが、尚の子の宇は登がその軍実を給せぬのを恨んだ。素は怒り宇の罪を治めようとしたが、宇に殺された。建平都尉暴重は宇を殺し、巴郡は大乱し、救援は果たされなかった。
- 驤はこれによって登を攻めることますます急となり、登の兵は窮まり士は饑え、遂に生きたままこれを獲て雄に送り、雄はそこで登を殺した。巴西・梓潼はことごとく雄の有となった。その後、雄の梁州刺史李鳳が巴西で叛くと、驤は太傅として大將軍事を行いこれを討ち斬った。転じて越嶲および朱提を攻め太守李釗を獲、都督中外諸軍事・大將軍・領中護軍・西夷校尉・録尚書・総統に進んだ。玉衡二十年(330年)冬に卒し、相国を追贈し諡を漢献王とした。夀が僭して帝位に即くに及び、追尊して諡を献皇帝とした。