十六国春秋蜀錄一 李特 字玄休

略陽臨渭の人、字は玄休(?–303年)。巴西宕渠の賨族すなわち廪君の末裔を称する巴氐の出で、父の李慕は東羌の猟将、兄弟五人はいずれも驍勇であった。関西の兵乱と飢饉に伴う流民の群れとともに巴蜀へ入り、益州刺史羅尚らの強制送還策に抗して六郡の流民に主として推され、鎮北大将軍を称して承制封拝を行った。成都の少城を落として建初と改元したが、まもなく羅尚と諸村塢の挟撃に敗れて戦死。子の雄が成漢を建てるにおよび、景皇帝と追諡され廟号を始祖とされた。

年表(6件)
  • 永康元年300年益州刺史趙廞が成都に拠って叛き、特兄弟を厚遇して爪牙とする
  • 永寧元年301年綿竹に引き揚げて費遠らを夜襲で破り、成都を攻めて趙廞を敗走・滅亡させる
  • 永寧元年301年六郡の流民に主として推され、辛冉を広漢に破って広漢に拠る
  • 永寧元年301年使持節大都督鎮北大将軍を自称し、竇融の故事に倣って承制封拝を行う
  • 太安元年302年毗橋で驤が羅尚の夜襲を受けるも、流と合わせて反撃し尚の軍を大破する
  • 建初元年303年位にあること一年で没し、のち子の雄により景皇帝と追諡され廟号を始祖とされる

賨民の由来(廪君伝説)

  • 李特、字は玄休、略陽臨渭の人。その祖先は巴西宕渠の賨族に出自し、廪君の末裔であるという。伝説によれば、昔、巴郡南部の蛮族には本来五姓があり、いずれも武落鍾離山から出た。ある時山が崩れ石の穴が二つ現れ、一つは丹のように赤く、一つは漆のように黒かった。赤い穴から出た者は務相といい巴氏を名乗り、黒い穴から出た者は四姓、樊氏・曎氏(一に曋、一に媓とも、音は審)・柏氏・鄭氏で、五姓は互いに争い君長が定まらなかった。
  • そこで神に仕え、石の穴に剣を投げて命中させた者を廪君とすることに決めたが、巴氏の務相の剣だけが穴に懸かり、人々は感嘆した。さらに土の船を彫り飾って水に浮かべ、浮いた船の持ち主を廪君とすることにしたが、務相の船だけが浮き、人々はついに務相を立てて廪君とした。務相は土船に乗り部下を率いて夷水に沿って下り、鹽陽(今の夷陵郡巴山県に当たるという、清江水は一名夷水ともいう)に至った。
  • 鹽水の神女は廪君を留めようとしたが、廪君は「私は封地を求める身、留まるわけにはいかない」と述べた。神女は夜ごと廪君のもとへ通い、朝には飛び去って羽虫に姿を変え、群がる虫が日を覆い天地は昼も暗くなった。廪君はこれを殺そうとしたが見分けがつかず、方角も分からぬまま十余日が過ぎた。廪君は青い糸を神女に贈り、身にまとうよう告げ、神女がこれを受けて身につけると、廪君は碭山の上から青い糸のしるしを目がけて弓を射て神女を射殺した。すると群がる虫は去り、天は再び開け明るくなった(一に「明」に作る)。
  • 廪君は再び土船に乗り夷城に至った。夷城は石の岸が険しく曲がり、泉の流れも曲がって穴のように見えたため、廪君は「私は穴から出たばかりなのに、また穴に入るのか」と嘆いた。すると岸は崩れて幅三丈余りとなり階段状になった。廪君はその上に登ると、岸の上には一丈五寸(一に長さ五尺とも)四方の平らな石があり、廪君はそこで休み、投げた占い棒がすべてその石の上に載った。そこで城を築いて住み、四姓はいずれもこれに臣従した。廪君は死ぬとその魂魄は白虎に化したといい、巴氏はこれにより虎に人の血を捧げて祀るようになった。
  • その子孫は繁栄し、秦が天下を統一すると黔中郡としてその地を治め、賦役を軽くし年に銭四十(一に三十とも)を課した。巴人は賦を「賨」と呼び(音は蔵宗の反切)、これにより賨民と称された。漢の高祖が漢王であった時、賨民を募って三秦を平定させたが、賨民は関を出て帰郷を願ったため、高祖はその功に報い豊沛の民と同様に賦税を免じ、その地を巴郡と改めた。土地には塩・鉄・丹・漆の利があり、民は豊かで、勇猛で鬼神や巫を好み、また歌舞に長じていた。高祖はその舞を愛し楽府に命じて習わせた、これがいまの巴渝舞である。

略陽への移住と巴氐の形成

  • 漢末、張魯が漢中に拠り鬼道をもって百姓を教化すると、賨民はこれを敬信し多くがこれに帰属した。天下大乱に際し、李氏は巴西の宕渠から漢中の楊車坂に移り住み、行商人や百姓を略奪したため「楊車巴」と呼ばれた。その後さらに繁栄し数十姓に分かれた。魏の武帝(曹操)が漢中を平定すると、李特の祖父李虎は杜朴胡・楊車・李黒らと共に(『三国志』には、巴の七姓の夷である朴胡・賨邑侯杜濩が巴夷の民を率いて帰順したとあり、孫盛は「朴の音は浮、濩の音は戸」と注する)、五百余家を率いて魏に帰順した。魏の武帝はこれを嘉し、虎らを将軍に任じ、略陽(一に洛陽とも)に移した。後にさらに関内へ移された一族も一万余家に及び、隴右の諸郡や三輔・弘農に散在して住み、北地の人々はこれを「巴氐」と呼んだ。
  • 李特の父・李慕は東羌の猟将となり、五人の子、輔・特・庠・流・驤をもうけ、いずれも驍勇で武才があった。特は若くして州郡に仕え、その頃から並外れた人物と評された。身長八尺、勇猛で騎射に優れ、沈着で度量があった。

巴蜀への流入

  • 晋の恵帝の元康年間、氐族の斉万年が反乱を起こし関西が擾乱、天水・略陽・扶風・始平の諸郡はいずれも兵乱に見舞われた。氐族はたびたび大飢饉に遭い、百姓は食を求めて移動、漢川に入った者は数万家に及んだ。特は流民に従い巴蜀へ入ろうとし、道中で病に苦しむ者があれば兄弟でこれを助け救った。剣閣に至ると、特は足を投げ出して座り、険阻な地形を眺めながら「劉禅はこれほどの要害を有していながら人に降伏した、なんと凡庸なことか」と嘆息した。同行の閻彧(音は郁)・趙肅・何巨・李遠・任回らはこれを聞き皆その非凡さに感嘆した。
  • 当初、流民が漢中に至った際、郡の土地が連年の軍乱で荒廃していることを理由に巴蜀での寄食を願い出たが、朝議はこれを許さなかった。侍御史の李苾を派遣し流民を慰労させ監察させ、剣閣より奥へ入れないようにした。ところが李苾は漢中で流民から賄賂を受け取り、逆に「流民十余万口は漢中一郡だけでは救済しきれない、東の荊州は水勢が急で険しく舟船もない、蜀には食糧の蓄えがあり豊作でもある、そこで食を求めさせるべきだ」と上表し、朝廷はこれに従い、関を開いて流民を通した。流民は漢中から梁州・三蜀の地に広がり、これを止めることはできなくなった。
  • 永康元年(300年)冬十一月、朝廷は益州刺史の趙廞(音は歆)を召し大長秋に任じ、成都内史で中山の人・耿滕を代わりに益州刺史・折衝将軍に任じた。廞はこの人事に不満を抱いた。廞は賈后の姻戚であり、召還を大いに恐れ、また晋室の衰弱と天変(趙星が黄色を帯びたのは陰謀を示す兆しという占い)を見て、蜀の地は四方が要害で自立できると考え、犍為太守李苾・汶山太守霍固・西夷校尉陳総と共に成都に拠って叛き、密かに劉氏のように割拠する志を抱いた。そこで倉庫を開き流民に施しを与えて人心を収め、特兄弟の武勇と、同郷の巴西出身の勇壮な者たちを見出し、厚く遇して爪牙とした。特らは廞の勢いを頼み衆を集め専ら略奪を働くようになり、蜀の民はこれを患った。
  • 耿滕はたびたび密かに、流民は剛剽(一に剛戅とも)で蜀人は柔弱、両者を制御できねば必ず乱の因となる、本国へ還すか、さもなくば東の三郡の険地に留め置き様子を見るべきだ、さもなくば秦雍の禍が梁益に及ぶだろう、また倉庫が空虚で万一の敵に応じられなければ朝廷の憂いとなる、と上奏した。廞はこれを聞いて憎んだ。時に成都は少城、益州の治所は太城にあったが、廞は太城を去らずにいたところ、朝廷はすでに文武千余人を派遣し滕を出迎えさせていた。滕は廞が州を去っていないため郡に留まっていたが、廞は李庠の一党である羅安・王利らを募り滕を襲わせ、広漢の宣化亭で大敗させ、詔を伝える使者を殺した。滕が州城に入ろうとすると、功曹の陳恂は「いま州郡はともに兵を構え怨みを深めている、城に入れば必ず大禍がある、少城に留まり事の変化を見るべきだ」と諫めたが、滕は従わず衆を率い入城、西門に登った。廞は近臣代茂を遣わし滕を攻めさせたが、茂はこれを密告して去った。廞はさらに兵を遣わし滕を西門で迎撃し、滕は敗死、郡吏はみな逃げ散ったが、陳恂だけは自ら縛につき廞のもとへ出頭し滕の遺骸を求めた。廞はその義心を認めこれを許した。
  • 廞はさらに西夷校尉陳総を迎撃させた。総は江陽に至ったところで廞の異心を知り、主簿の趙模は「いま州郡は不和で必ず大変が起こる、速やかに救援に向かうべきだ、府はまさに兵の要衝、順を助け逆を討つのが道理だ」と進言したが、総は道すがら滞留し、南安の魚涪津に至った時にはすでに廞の軍と遭遇していた。模は財を散じ兵を募り抗戦するよう勧めたが、総は「趙益州は耿侯を恨んで殺したのであって我らには関係ない」と述べて聞き入れず、衆はついに自ら潰走した。総は草叢に逃れ、模が総の服を着て奮戦して戦死、廞の兵は模を殺した後、それが人違いだったと気づき、さらに捜索して総を見つけ殺した。
  • 廞は自ら大都督大将軍益州牧を称し、属官を置き守令を改め、武陽令の杜淑・別駕の張粲・巴西の張亀・西夷司馬の龔尼・江源令の費遠らを左右長史・司馬・参軍とし、臨邛令の許弇を牙門将に招き、諸王の官もこぞって出仕させた。また広漢太守張微・汶山太守楊邠・成都令費立を軍諮祭酒とした。
  • 永寧元年(301年)春正月、李庠は兄弟の流・驤、妹婿の李含、天水の任回、上官惇(『華陽国志』には上官晶に作る)、扶風の李攀、始平の費佗、氐族の符成・隗伯・董勝らと共に四千騎を率いて廞に帰属した。廞は庠を威寇将軍・陽泉亭侯とし、腹心として六郡の壮勇を招き北の道を断つ任を委ねた。庠は元来東羌の良将で驍勇にして人望があり、軍法に通じ、旗を用いず矛を掲げて隊伍を組み、命に従わなかった部下三人を斬ると隊列は粛然となった。廞はその統率の見事さを憎み殺そうとしたが言い出せずにいた。長史の杜淑・司馬の張粲は廞に「昔から『五大は辺境に置くべからず』というが、将軍が挙兵したばかりでいきなり李庠に強兵を外に握らせるのは危険、しかも異なる一族、その心も異なりましょう、戈を逆さに人に授けるようなもの、お考え直しください」と説き、廞は「そなたたちの言は私の考えと合致する」と応じた。折しも庠が門前で謁見を求めており、廞は喜んで引見した。庠は廞の意向を探ろうと再拝して進み出て「いま中国は大乱、晋室はもはや再興できません、明公の徳は天地に格り四方に及んでいます、湯武の事はまさに今日にあります、天の時に応じ人心に従い百姓を塗炭の苦しみから救えば、天下も定まりましょう」と述べた。廞は激怒し「これは人臣が口にすべきことではない」と述べ、淑らに議させた。淑・粲はこれにより庠を大逆不道と訴え、廞は会場でただちに庠とその兄の子・弘、宗族三十余人を斬った。
  • この時、特と流はいずれも兵を率いて外にあり、廞はその変事を恐れ人を遣わし慰撫させ「庠が言うべきでないことを言ったため罪は死に当たるが、兄弟の罪までは及ばさない」と述べ、改めて特・流を督将とし人心を安んじさせ、庠の遺骸を特のもとへ返した。その夜、特・流は衆を率い綿竹へ引き揚げた。廞は旧陰平令の張衡を遣わし外任の費恕を招こうとしたが、その使者はいずれも特に殺された。
  • 廞の牙門・許弇は巴東監軍への任命を求めたが、杜淑・張粲がこれを固く拒んだため、弇は怒り廞の閣下で淑・粲を斬りつけ、淑・粲の左右がまた弇ら三人を殺した。淑・粲・弇はいずれも廞の腹心であったため、廞はこれにより勢いを失った。廞はさらに朝廷の討伐を恐れ、長史費遠・蜀郡太守李苾に督護常俊を率いさせ北道を断とうとし、綿竹の石亭に布陣させたが、特は密かに七千余の兵を集め夜襲、遠らは大敗し焼き討ちにより十のうち八、九が死んだ。特はそのまま成都を攻め、廞は兵の来襲に驚き為すすべを知らなかった。費遠・李苾・軍諮祭酒の張微(一に徽、また音は徴)は夜に関を破って出奔、文武はことごとく散り、廞は妻子と共に小船で広都まで逃れたが、部下の朱竺に殺された。
  • 特は成都に入り兵を放って大いに掠め、西夷護軍姜発・長史袁洽および廞が任命した守宰・長吏を殺し、牙門の王角・李基を洛陽へ遣わし廞の罪状を訴えさせた。

羅尚の入蜀と対立の深まり

  • これより先、涼州刺史羅尚は趙廞の叛乱を聞き、廞は英雄の器ではなく蜀人も乱を望まぬから事は成就しないだろうと上表し、征討を願い出た。恵帝は尚を平西将軍領護西夷校尉益州刺史に任じ、牙門の王敦・上庸都尉の義歆・蜀郡太守の徐儉・広漢太守の辛冉らに七千余人を率いさせ蜀へ入らせた。特らは尚の来襲を聞き恐れ、弟の驤を道中に遣わし出迎えさせ宝物を献上した。尚は喜び驤を騎督とし、特・流も牛肉と酒を持って綿竹で尚を労った。王敦・辛冉は尚に「特らの流民は専ら盗賊を働いている、急ぎ討ち滅ぼすべき、会の機に乗じて斬ればよい、さもなくば後患となる」と説いたが、尚はこれに従わなかった。冉は元来特と旧知であり、特に「故人と再会したのに凶事が起こりそうだ」と告げたため、特は深く猜疑を抱くようになった。
  • 三月、尚は成都に至った。当初朝廷は秦雍の州に、漢川に入った流民をすべて本籍地へ召還するよう命じ、御史馮該・張昌を遣わし督させていた。特の兄・輔は元来略陽に留まっていたが、家族を迎えると偽って蜀に至り、特に「中国はいま大乱、還る必要はない」と告げた。特はこれを是とし、巴蜀に雄拠する志を抱くようになった。たびたび天水の閻彧を羅尚のもとへ遣わし猶予を求め、秋にはさらに尚および馮該に賄賂を贈り、両者はこれを承諾した。折しも朝廷が趙廞討伐の功を論じ、特を宣威将軍・長洛(一に樂とも)郷侯、流を奮威将軍・武陽郷侯に封じた。璽書が益州に下り、六郡の流民のうち特と協力して廞を討った者に恩賞を加えるよう命じたが、広漢太守辛冉は自らが不当な功で徴されたことを不満とし、廞の討伐を自分の功とみなそうとして朝命を伏せ実情を報告しなかったため、衆は皆これを怨んだ。
  • 尚はさらに従事を遣わし流民に七月までの帰還を督促したが、特らは固く猶予を願い秋の収穫まで待とうとした。当時流民は梁益の各地で人に雇われ働いており、州郡からの督促を聞いて人々は皆愁え怨み、なすすべを知らなかった。また折しも大雨が続き穀物も実らず旅費もなかった。特は再び閻彧を遣わし冬までの猶予を願ったが、辛冉と犍為太守李苾はこれを不可とした。尚は別駕の杜弢・秀才の閻彧を挙げ、弢は流民を一年寛恕することを望んだが、尚は冉・苾の策に従いこれを聞かず、弢はついに秀才の任命を返上し帰郷した。冉は貪欲残忍な性格で、流民の首領を殺しその財貨を奪おうとし、苾と共に尚に「流民は先の趙廞の乱に乗じて多くを掠め取っている、移住に際して関を設けこれを奪い取るべきだ」と進言、尚は檄を飛ばし梓潼太守張演に諸要地に関を設け財貨を捜索させた。特兄弟はたびたび流民のため留住を願い出て、流民はこれに感謝し多くが特を頼るようになった。
  • 特はそこで綿竹に大営を築き流民を住まわせ、辛冉に猶予を求める使者を送ったが、冉は激怒し人を遣わし各所の通りに布告を掲げ特兄弟を懸賞させた。特はこれを見て大いに恐れ、すべて回収した上で弟の驤と共にその懸賞の内容を書き換え、六郡の首領・李任閻趙楊上官および氐叟の侯王一名を送った者には布百疋を与えるとした。流民は移住を望まなかったこともあり、次々と特のもとに帰し、馬を馳せ弓矢を携えた者たちが雲のように集まり、旬月の間に衆は二万に達した。流も数千人の衆を集めた。特は再び閻彧を羅尚のもとへ遣わし猶予の期限延長を求めた。彧は現地に至ると、辛冉が要衝に営柵を築き流民を襲おうとしているのを見て「敵もいないのに城を築くのは、必ず仇を防ぐためだ、民心はいま危うい、事を急げば乱が起こるだろう」と嘆いた。また冉・苾の意向を翻せないと悟り、尚のもとを辞して綿竹へ帰った。尚は彧に「そなたはひとまず私の意向を流民たちに告げよ、いまは寛恕することとした」と述べたが、彧は「明公は奸説に惑わされている、寛恕は望めないだろう」と述べた。尚は「いや、私はそなたを欺かない、行くがよい」と答えた。彧は綿竹に至り特に「尚はああ言うが必ずしも信じられない、なぜなら尚の威信(一に威刑とも)は立たず、冉らはそれぞれ強兵を擁している、いつ変事が起きても尚に制しきれるものではない、深く備えるべきだ」と述べ、特はこれに従った。
  • 冬十月、特は軍を二営に分け、特は北営に、流は東営に居り、甲を繕い兵を鍛え厳戒して備えた。冉・苾は互いに「羅侯は貪欲で決断力がなく、日を追うごとに流民に奸計を巡らす余地を与えている、李特兄弟はいずれも雄才、我らは若造の虜になってしまうぞ、決断すべきだ」と謀り、広漢都尉曽元・牙門張顕・劉並らに歩騎三万を率いさせ密かに特の営を襲わせた。羅尚もこれを聞き督護田佐を遣わし元を助けさせた。特は元来これを察知しており、平然と構えて動かず、敵の半数が営に入るのを待って伏兵を発し撃った。多くの死傷者を出し田佐・曽元・張顕を殺しその首を伝え尚・冉に示した。尚・冉は将佐に「この虜はもう終わりだと思っていたのに、広漢が我らの言を用いず賊の勢いを助長させた、いまどうしたものか」と語った。この時杜弢は湘中から監軍柳純に書を送り、以前に特を一年寛恕せず、また徐士稚を汶山太守にしなかったことでこうなった、僅かな差が千里の差になったとはこのことだ、と論じた。
  • そこで六郡の流民は特を主に推戴した。特は六郡民部曲督の李含・上邽令の任臧・始昌令の閻彧・諫議大夫の李攀・陳倉令の李武・陰平令の李遠・将兵都尉の楊褒らに命じ、漢の梁統・竇融の故事に倣い、特を鎮北大将軍に推し承制封拝させるよう上書させた。流および兄の輔、弟の驤もいずれも将軍を号し統率にあたった。そこで進軍し辛冉を広漢に攻め、冉の軍が出撃するたびに特はこれを破った。尚は李苾・費遠に軍を率いさせ冉を救援させたが、特を恐れて進めなかった。冉は智力ともに尽き、徳陽(『晋書』には江陽に作る)へ逃れた。特は広漢に入り拠り、李超を太守とし、進軍して成都の尚を攻めた。
  • 尚は書を閻彧に送って説諭しようとした。彧は返書で「辛冉は狡猾で心の狭い者、曽元は小人、李叔平(李苾)は将佐の器にあらず、彧は以前あなたと杜景文に流民を移す是非を論じました、人は皆故郷を懐かしむもの、誰が移住を望みましょうか、しかしかつて流民が初めて至った際、糧を得るため一室を借りて秋の長雨に遭い、冬の収穫を待とうと願ったのに、讒言を信じてついに聞き入れられず、あまりに厳しく取り締まりました、窮した鹿は虎に立ち向かうもの、流民が首を差し出すのを拒み変事に至ったのは当然です、もし彧の言を聞き入れ寛大にして治め、去る秋九月から十月まで集めて出発させていれば、いまごろ郷里に還っていたでしょう」と述べ、さらに特兄弟が王室のために功を立て益州を安んじたことを陳べた。尚はこの書を読み、特らに大志があると知り、城に籠って固守した。

六郡流民の推戴と成都攻略

  • 特は自ら使持節大都督鎮北大将軍と称し、竇融の河西における故事にすべて倣って承制封拝を行った。兄の輔を驃騎将軍、弟の驤を驍騎将軍、弟の流を行鎮東大将軍・東督護とし、長子の始を武威将軍、次子の蕩を鎮軍将軍、末子の雄を前将軍とし、李含を西夷校尉、含の長子の国、次子の離、任回・李恭・上官晶・李攀・費佗らを将帥、任臧・上官惇・楊褒・楊珪・王達・麴歆らを爪牙、李遠・李博・夕斌・厳檉・上官琦・李濤・王懐らを僚属とし、閻彧を謀主、何巨・趙肅を腹心とした。
  • 当時羅尚は貪欲で残忍さを増し百姓を苦しめていたが、特は蜀民と法三章を約し、施しを与え賢者を礼し滞る者を引き立て、軍政は粛然としていた。蜀の民は大いに喜び「李特ならばまだよい、羅尚は我らを殺す、平西将軍はかえって禍となった」という童謡を作って歌った。尚はたびたび特に敗れ、長い包囲陣を築き郫水沿いに営塁を連ね、都安から犍為まで七百里に及んで特と対峙し、梁州・寧州や南夷校尉の李毅に救援を求めた。
  • 太安元年(302年)春正月、羅尚は牙門の夏侯を遣わし特を立石で攻めたが失敗した。夏四月、征西将軍太尉河間王司馬顒は督護の衙博を遣わし特を討たせ、博は梓潼へ進駐した。朝廷は再び前広漢太守の張微を広漢太守とし徳陽に布陣させ、南夷校尉李毅もまた叟兵五千を遣わし尚を助けた。尚は督護張亀に四十の牙門を率いさせ繁城に布陣させた。博は密かに参軍蒙紹を遣わし特に投降を勧めた。尚は博に書を送り、以前李流から投降の申し出を受けたものの後に威勢を得て寇となったことを引き、特の誠意が下吏にあると聞くが流・驤の七、八千の衆が来寇する日には奸謀が測りがたい、重く警戒すべきだと告げたが、博はこれに従わなかった。
  • 特は子の鎮軍将軍・蕩らに命じ博を襲わせ、自らは張亀を攻めこれを破った。蕩は博の軍を陽沔で破り、梓潼太守張演は倉庫を捨てて逃げた。巴西郡丞の毛植・五官の襄珍は郡を挙げて特に降った。蕩は進んで博を葭萌で攻め、博は逃走しその衆はことごとく降った。群下は特を益州牧都督梁益二州諸軍事大都督大将軍に推戴した。秋八月、特は徳陽を攻め破り郡守張微を殺した。当初、特はたびたび微の軍を破りながらも攻めきれず、微を涪へ帰そうとしたが、諸将は「微の軍は連戦により士卒が傷つき知勇ともに尽きている、この弊に乗じて捕えるべき、もし赦して寛大にすれば、微は病を養い残兵を集め改めて謀るだろう」と進言した。特はこれに従い再び微を攻め、微の軍は潰えて包囲を突破しようとしたが、水陸から追撃させついに微を殺し、微の子の存を生け捕り、微の遺骸を返した。特は別駕の騫碩を徳陽太守とし、碩は巴郡の墊江まで地を略した。
  • 特が張微を攻めていた頃、弟の驍騎将軍驤には任回・李攀・李恭を副えて毗橋に駐屯させ羅尚に備えさせていた。尚は軍を出して挑戦したが驤はこれを破った。尚がさらに数千人を出撃させると驤は再びこれを破り陥れ、進んで成都を攻め多くの武器を得てその門を焼いた。流は成都の北に進軍した。尚は別将張興を遣わし驤に偽って投降させ虚実を探らせた。当時驤の軍は二千人に満たず、興は夜に尚のもとへ帰り報告、尚は精鋭一万人に枚を含ませ興に従わせ夜襲させた。李攀はこれを迎え撃ち戦死したが、驤と将士は流の柵まで退き、力を合わせて反撃し尚の軍を大破した。尚の軍は混乱し武器を失い、帰還できた者は十のうち二、三にすぎなかった。
  • これより先、衙博が敗れると朝廷は改めて許雄を梁州刺史・征西将軍に任じ、雄はたびたび軍を遣わし特を攻めたが、特はこれを撃破し険地を固めて進ませなかった。河間王司馬顒は監軍劉沈に西征を命じようとしたが中国に事があり実現せず、南夷校尉李毅の遣わした叟兵もたびたび敗れ、特の勢いはますます盛んになった。そこで建寧の大姓李叡・毛詵は太守杜俊を追放し、朱提の大姓李猛は太守雍約を追放して特に呼応、それぞれ数万の衆を集めたが、南夷校尉李毅がこれを討ち破り詵と李猛を斬った。李猛は書を奉り毅に降ろうとしたが言辞が不遜であったため、毅はこれを誘い出して殺した。
  • 建初元年(303年)春正月一日、特は密かに川を渡り羅尚の水上軍を破った。特は盎底から渡り、党徒は赤水から渡って郫県に入り、江の西南沿いの守備軍はいずれも散り逃げた。特は成都を攻め、蜀郡太守徐儉は少城を挙げて降り、特はこれに入拠した。ただ馬だけを軍用に取り、それ以外の略奪は行わず、境内に大赦を行い建初と改元した。特は李璜(「載記」には瑾に作る)を蜀郡太守とし民を撫慰させた。尚は太城に拠り自守し、流は江西の検上に進駐した。尚は恐れ和議を求め、蜀の民は危惧して村や砦を結び特に款を通じた。特は使者を遣わし安撫させ、軍中の食糧が乏しいため六郡の流民を分散させ城内に入れ、また諸砦で食を得させ、壮勇な者に村や砦の指揮を執らせた。
  • 流民の督領は特に「殿下は神武にすでに少城を克服されましたが、諸砦は新たに帰属したばかりで人心は未だ固まっておらず、また山藪の窮乏した地で糧食も武器も多くはありません、州郡の大姓の子弟を人質にとり広漢に送って留め置き、二営に精鋭を集め厳重に防備を固めるべきです」と進言した。また司馬の上官惇も「降伏を受け入れる時は敵に対する備えを緩めてはならない」と述べ、前将軍の雄もこれに同調した。しかし特は激怒し「大事はすでに定まった、ただ民を安んずればよい、なぜさらに疑いの心を加え民を離反させようとするのか」と述べた。益州兵曹従事蜀郡の任叡(『華陽国志』には任督、冊府には任明に作る)は尚に「特はすでに凶逆を働き百姓を侵し暴虐を極め、また民衆を諸村塢に分散させ食を得させています、驕り怠り備えがない、まさに天が特を滅ぼす秋です(『晋書』には「是天亡之時也」に作る)、密かに諸塢と期日を約し内外呼応して同時に討てば必ず破れましょう」と説いた。尚はこれに従い、叡に夜城壁を伝い降ろさせ諸村塢に告げさせ、二月十日を期して同時に特を討つよう命じ、手書きに隠語を用い「彼の揚水に在り」と記した。叡はまず偽って特に投降を申し出て虚実を探った。特が城中の人情を尋ねると、叡は「糧はもう尽きようとしています、ただ財貨と絹だけが残っています」と答え、家族を見舞うための外出を願い出て、特は信任の証を与えて許し、叡は尚のもとへ戻り報告した。
  • 尚は期日通りに軍を出して特を討ち、諸村塢もまた一斉に呼応することを約していた。二月、朝廷は荊州刺史宋岱・建平太守孫阜に水軍三万を率いさせ尚を救援させた。岱は阜を前鋒とし徳陽に進駐させた。特は蕩に蜀郡太守李璜を率いさせ、徳陽太守騫碩(一に任臧とも)を助け阜を防がせたが、阜らの軍勢は非常に盛んで、諸村塢はいずれも異心を抱くようになった。尚は大軍を出し特の営を急襲、諸村塢もこれに呼応した。連戦二日、特の衆は寡兵で敵しきれず大敗、残兵をまとめ新繁へ引き揚げた。尚の軍が引き返すと特はさらに追撃し、三十余里にわたり転戦したが、尚が大軍を出して官桑で迎え撃つと、特の軍はついに敗れ、特・李輔・李遠は斬られいずれも屍を焼かれ、首は洛陽に伝えられた。
  • 特は位にあること一年であった。その子の雄は後に成都王を僭称し、追諡して景王とし、さらに帝号を称するに及んで景皇帝と追諡し、廟号を始祖とした。