十六国春秋馬岌

西王母祠の建立

  • 馬岌は張茂に仕えて參軍となった。劉曜が隴上から兵を率いて涼州を撃つと、大いに震動した。岌は茂に自ら出て拒むよう勧め、茂は出て石頭に次ると曜の衆は引き退いた。
  • 張駿の嗣位に及んで涼州刺史に転じ、酒泉太守となった岌は上言して言った、「酒泉の南山はすなわち崑崙の体である。周の穆王が西王母に見え楽しんで帰るのを忘れたのはこの山を言うものである。この山には石室・王母堂があり、珠璣鏤飾は煥として神宮の如くである。『禹貢』に崑崙は臨江の西にあるとするのはこの山のことに明らかである。西王母の祠を立てて朝廷の無疆の福を裨けるべきです」と。駿はこれに従い、祠を立てて祀った。
  • 重華の時、左長史となった。祚が即位すると累遷して尚書となった。時に災異がしばしば見られ、祚は淫虐がますます甚だしくなり、岌は切諌をもって免官された。後に祚は秦の降将王擢が反噬することを慮り、岌を召して復位させこれと謀り、密かに人を遣わして擢を刺させようとしたが、事が竟に成らず、擢に殺された。