十六国春秋常據(一作張璩)[^4]

忠死の将軍

  • 常據は字を元琰といい、燉煌の人である。年十四にして奉車都尉を拝し、梁肅に従って隴右を征したとき、王擢と邢崗で遇い、相拒むこと十余日、據は枚を銜んで密かに撃ち、遂に大いにこれを破り、これによって名を顕した。寧戎校尉に遷った。
  • 麻秋が枹罕を攻めた際、據は大城を固守した。秋は衆を率いて城の上西北隅を囲んだが、據は宋脩らにこれを拒ませ、短兵接戦して二百余人を俘斬し、秋の衆はすぐに退いた。
  • 重華の時、騎都尉として仕え、性は直で敢えて言った。長寧侯祚が寵臣趙長らと異姓の兄弟を結び乱を為そうと謀っているのを見て、心に不平を抱いた。
  • 重華の末年、螽斯という蟲が安昌門の外に集まり壁を縁って逆に行った。據はこれによって諌めて言った、「螽斯は祚の小字です。今、逆行しているのは災いの大なるものです。祚を出して涼土を安んずることをお願いします」と。重華は言った、「子孫繁昌の徴であって、どうして災いであろうか。私は昨日、祚が位を摂り周公の八篇の事を委ねられ幼子を輔けさせられる夢を見た。これはどういうことか」と。
  • 重華が卒するに及び、祚は果たして靈耀を殺した。涼州は大乱し、天錫が嗣位すると、據は征東將軍に遷った。
  • 秦の苻堅が姚萇らを遣わして涼を攻めさせたとき、據は衆三万を率いて洪池に軍し、天錫の命を待ってから先に姚萇を撃とうとしていたが、会たまたま萇が甲士三万を率いて前駆となり、據と洪池で戦い、據の軍は敗績し馬は乱兵に殺された。その属の董儒が馬を授けようとしたが、據は言った、「吾は三たび諸軍を督し、再び節鉞を秉り、八たび禁旅を将い、十たび外兵を統べ、寵任は極まった。今、卒にここで困窮している。これは吾の死地である。どうしてなお安んじられようか」と、そこで帳に就いて胄を免じ西に向かって稽首し、剣に伏して死んだ。