十六国春秋索襲

隠逸の碩儒

  • 索襲は字を偉祖といい、燉煌の人である。虚靖で学を好み、州郡がしばしば徴しても就かず、孝廉・賢良方正に挙げられてもみな疾をもって辞した。陰陽の術を思索し、『天文地理』十余篇を著したが、当世と交わらず、あるいは独り語り独り笑い、あるいは長嘆して涕泣し、問われても言わなかった。
  • 張茂の時、燉煌太守(一に武威に作る)陰澹が訪ねてきて、共に語り終日にして帰るのを忘れ、出でて嘆じて言った、「索先生は碩徳の名儒であり、真に大義を諮るに足る」と。澹は郷射の礼を行おうとし、襲を三老に請うて言った、「今、四表は寧輯であり、まさに郷射の礼を行おうとしている。先生は年耆く望重く道は一時に冠たり、養老の義は実に儒賢にかかっている」と。
  • 襲は謝して言った、「梧桐に非ざるに鸞鳳が翼を降すことを希い、曹公を謝して盖公を冀うことを枉駕するというのは、実にそう言うべきではない。しかし夫子(孔子)は至聖であっても召されれば即ち赴き、孟軻は大徳であっても聘されずには至らなかった。それは大猷を弘闡し道化を敷明しようとしたためである。今、相屈するのは道を遵び教えを崇めるためであって、爵位のためではないだろう。それならば良いのですが」と。
  • 会に病んで卒した。時に年七十九。澹は素服して會葬し、銭二萬を贈った。澹は言った、「世人が有り余るものとするのは富貴である。目が好むものは五色であり、耳が玩ぶものは五音である。しかし先生は衆人が収めるものを棄て、衆人が棄てるものを収め、怳惚の際に無味を味わい、衆妙の内に重玄を兼ねた。宅は畆を彌たさなくとも九州を忘忽し、塵俗に居しても心は天外に棲んだ。黔婁の高逺、荘光の不願であっても、これに過ぎるものはない」と。そこで諡して玄居先生といった。