十六国春秋宋纎

隠逸の高士

  • 宋纎は字を令文(一に艾に作る)といい、燉煌効糓の人である。若くして遠い操を持ち、沈静で世間と交わらなかった。酒泉の南山に隠居し、経緯(経書)に明るく通じ、弟子で業を受ける者三千余人であったが、州郡の辟命には応じなかった。ただ隠顒とのみ齊しく好しみを結んで友善であった。
  • 張祚の時、太守楊宣はその肖像を閣上に画き、出入りにこれを視て頌を作って言った、「何の石を枕とし、何の流れに漱ぐか。身は見るべからず、名は求むべからず」と。
  • 酒泉太守の馬岌は高尚の士であった。威儀を具え鐃鼓を鳴らし纎の高樓を訪ねたが(一に扃鎖に作る)、重門は拒んで会わなかった。岌は嘆じて言った、「名は聞くべくして身は見るべからず。徳は仰ぐべくして形は覩るべからず。吾は今にしてはじめて先生が人中の龍であることを知った」と。石壁に詩を銘して言った、「丹崖百丈、青壁萬尋、竒木蓊鬱、蔚として鄧林の如し。その人は玉の如く、国の琛たり。室は邇きも人は遐く、実に我が心を勞す」と。
  • 纎は経緯を明究し、『論語』の論と詩頌数萬言を著した。年八十にして篤学倦まなかった。祚は後に使者張興を遣わして太子少傅に辟し、興は逼り喩すこと甚だ切であった。纎は喟然として嘆じて言った、「徳は荘生に非ず才は干木に非ず、どうして明命に稽停できようか」と、ついに興に随って姑臧に至った。
  • 祚は太子大和を遣わして執友の礼をもってこれを訪ねさせたが、纎は疾と称して会わず、贈遺は一切受けなかった。ほどなく太子太傅に遷され、しばらくして上疏して言った、「臣は方外に生を受け、心は太古を慕い、生きては存を喜ばず、死しては歿を悲しみません。もとより遺属があり、諸知識に属して、山にあれば山に投じ、水に臨めば水に投じ、澤に処すれば形を露わし、人親士に聞こえたる声名は書して数えることを勿れとの遺志です。今、命終わるにあたり、この平素の願いのとおりにさせていただきたい」と。ついに食を絶って卒した。時に年八十二。諡を玄虚先生といった。