張祚殺害から簒奪未遂まで
- 張瓘は張祚の宗人である。河州刺史となり、士衆は強盛であった。祚はこれを猜忌し、ひそかに兵を遣わして瓘を図ろうとしたが、瓘は衆を率いてこれに拒み、祚を萬秋閣で殺し、ついに姑臧に入って張玄靚を凉王に立て、自らは凉州牧となった。
- 瓘は性が猜惡で、賞罰はみな愛憎をもって行い、綱紀を復さなかった。郎中の殷邭は損益を陳べて瓘を諌めた。瓘は言った、「虎は生まれて三日で自ら肉を食える。人の教えを須いない」と。これによって人情は付かず、言う者はいなかった。
- 後にまた玄靚を廃して自立しようと謀ったが、事は未だ遂げられなかった。あるとき玄靚と同車して城を出たとき、城西の橋梁は堅牢であったのに三本の梁が忽ち摧け折れた。また祚が来て部従の鎧甲を着て手を挙げ瓘を指して「氐奴、まさに汝の頭を截るべし」と言うのをしばしば見た。瓘はこれを甚だ悪んだ。
- そこで日々銭帛を人に散じて私恩を樹てたが、都の街では人が朝夕絶えず殺され、乱を為そうと思う者は十室のうち九にのぼった。東苑の大冢の上に忽ち流水があり、城北の大澤の地に忽ち火が燃え数里に広がった。そこで牛旋らを昔からの嫌怨のゆえに殺して水火の変に応じさせた。
- 刺史の旧事では、正旦に鳥を放つ習わしがあったが、瓘の放つ鳥は輙ち死んだ。またある鳥が飛来して広夏門に巣を作り、弾いて追ってもいなくならなかった。瓘は自ら見に行った。宋混は弟の澄を遣わしその巣のあるところで瓘を害した。
- 瓘は臨終に際し澄に語って言った、「汝は婚姻の恩を荷いながらかえって逆を為す。皇天后土は必ずこれを照らすであろう。我は自ら死ぬことができるが、まさに汝も我とともにすることになろう」と。そして先に妻子三十口を殺してから自殺した。
- これより先、太白が輿鬼の宿を守り、占う者は州分に暴兵があるはずだと考えた。瓘は諸宋を誅してこれを厭おうとしたが、瓘はついに澄らに殺されることとなった。