即位
- 張天錫、字は純嘏。駿の末子。小名は独活。当初字は公純嘏であったが、入朝の際に人々がその三字を笑ったため自ら改めた。母は劉美人。玄靚が死ぬと国人は天錫を立て太廟に謁し、嫡母の厳氏を太王太后に尊び、生母の劉氏を王后とした。当時十八歳、自ら使持節大都督大将軍護羌校尉涼州牧西平公涼王と号し、司馬綸騫を遣わし上表し冊命を請い、あわせて御史俞帰を京師へ送り返した。
- 興寧二年二月、詔により天錫を大都督大将軍督隴右関中諸軍事護羌校尉涼州刺史西平公とした。夏六月、秦は大鴻臚回国を遣わし天錫を大将軍涼州牧西平公に任じた。
驕奢と諫言
- 興寧三年正月、天錫は驕り放埓で淫らに耽り昏迷し民の務めを顧みなかった。元日には寵臣と淫らに酒を飲み、群僚の朝賀を受けず、永訓宮への朝礼も行わなかった。従事中郎張慮は棺を輿に乗せて切に諫め拝謁を求めたが、天錫は容れなかった。少府長史紀錫は上疏し「馬の力がすでに尽きているのに求めて止まなかった、人がすでに疲れ果てているのに使役をやめなかった」故事を引き、明王は必ずその民を憐れむものだと諌めたが、天錫はやはり従わなかった。
- 太和元年冬十月、天錫は使者を秦の境まで送り秦との断交を告げた。天錫はたびたび園池で宴を催し政事はかなり廃れた。蕩難将軍校書祭酒索商は上書し切に諌め、天錫は「私は行いを好んで行っているのではない、行いには得るところがあるからだ」と答え、朝廷の栄華や芝蘭・松竹・清流・蔓草・狂風などに接するたびそれぞれの美徳・悪徳を思うと語り、これを引き延ばしていけば漏れなく人材を評価できるだろうと述べた。
- 当初隴西の李儼は郡を挙げて秦に降っていたが、まもなく再び天錫と通じた。十二月、羌族の歛岐は自ら益州刺史を称し略陽の四千家を率い秦に叛き儼のもとへ身を寄せた。
李儼討伐と王猛の警告
- 太和二年三月、天錫は諸軍を率い儼を攻め、別駕楊遹を監前鋒軍事前将軍として金城へ、晋興相常拠を使持節征東将軍として左南へ、遊撃将軍張統を白土へそれぞれ向かわせ、天錫自ら三万人を率い倉松に進駐した。夏四月、天錫は儼を攻め大夏・武始の二郡をいずれも陥落させ、常拠は儼の兵を葵谷で破った。天錫は左南に進駐、儼は恐れて枹罕へ退き守り、兄の子・純を秦へ遣わし謝罪しあわせて救援を求めた。
- 秦は王猛・楊安・王撫・邵羌らに歩騎二万を授け儼を救援させた。猛は邵羌に歛岐を追わせ、王撫に侯和を守らせ羌衡に白石を守らせ、猛は楊安と共に枹罕を救援した。天錫は楊遹に迎撃させ枹罕の東で交戦、遹は大敗し士卒七千余りを失った。猛はそのまま天錫と城下で対峙し、天錫に書を送り「私は儼を救う詔を受けたが、涼州と戦うようにとの命は受けていない、もし将軍が兵を退かれるなら、私は儼を捕らえて東へ引き上げ、将軍は民を移して西へお帰りになる、それでよいのではないか」と伝えた。
- 天錫は諸将に「猛の書はこの通りだ、私はもともと叛者を討伐しに来ただけで、秦と戦いに来たのではない」と述べ、兵を引いて帰った。
- 太和三年、天錫は別に臨松郡を置いた。
- 太和四年、子の大懐を世子に立てた。この頃、姑臧の北山の楊の木に松の葉が生え、西苑の牝鹿に角が生え、東苑の銅仏に毛が生え、延興では地震で地が陥没し水が湧き出た。天錫は素服して正殿を避け自らの過ちを責めた。
- 太和五年、晋は再び使者を遣わし天錫を都督隴右関中諸軍事大将軍涼州牧西平公に任じた。
秦への服属
- 咸安元年、すなわち天錫の八年にあたる。地中の三十余か所で火が燃え上がったが、天錫は声色に耽り政務を顧みなかった。夏四月、秦の王猛が天錫を枹罕で破り、燉煌の陰拠と甲士五千人を捕らえた。苻堅は拠にその甲士を率いさせ涼州へ帰し、著作郎閻負・梁殊にこれを送らせ、あわせて王猛に書を作らせ天錫を諭させ、秦の威徳を説き服属を勧めた。
- 天錫は大いに恐れ使者を遣わし秦に藩を称し、秦は使者を遣わし天錫を使持節都督河右諸軍事驃騎大将軍開府儀同三司涼州牧西平公に任じた。
隠士郭瑀の招聘
- 咸安二年、天錫の母・劉氏が卒した。先立って天錫は使者の孟公明に節と蒲輪・玄纁を持たせ、燉煌の処士郭瑀を召そうとしていた。瑀、字は元瑜は若くして俗を超えた志操を持ち、東の張掖へ遊学し郭荷に師事しその学をすべて伝授され、経理に精通し弁舌にも優れ談論を好み、多才で文章にも長けていた。荷が没すると、瑀は師への喪礼を重んじ斬衰の喪服を着け墓のそばに廬を建て三年間服喪した。
- 喪が明けると臨松の薤谷に隠棲し、石窟を掘って住まい、栢の実を食べて身を軽くし、『春秋墨説』『孝経錯緯』を著し、弟子は千余人に及んだ。天錫は礼を尽くして召そうとし、瑀に書を送り、済世の才を懐きながら座視して救わないのは仁智の道にもとるのではないかと訴え、出仕を求めた。
- 公明が山に至ると、瑀は飛び翔る鴻を指して「この鳥をどうして籠に入れられようか」と言い、深く姿を隠した。公明はその門人を拘束すると、瑀は嘆じて「私は禄から逃れているのであって罪から逃れているのではない、隠棲して義を行いながら門人に累を及ぼしてよいものか」と述べ、出仕に応じた。姑臧に至ると折しも天錫の母が卒しており、瑀は髪を束ねて弔問に赴き三度哭礼して退出、南山へ戻った。
側近の重用と桓温との盟約
- 寧康元年正月、天錫は世子の大懐を使持節鎮西将軍高昌郡公とし、改めて寵妾焦氏の子・大予を世子に立て焦氏を左夫人とした。秋七月、大水と地震があり、西平では五十日間地震が続き楼閣が崩れた。八月、天錫は病に伏し、美人の閻姫・薛姫はいずれも自殺した。冬十月、天錫の病は癒え、境内に大赦を行い二人の姫を悼み夫人の礼で葬った。
- 寧康二年秋七月、当初安定の梁景・燉煌の趙粛はいずれも名門の子弟で幼くして天錫と親しかった。張邕の誅殺の際、景・粛には功があり、天錫はこれを深く徳とし張の姓を賜り、さらにその子を自らの養子とした。天錫の諸子はみな「大」の字を通字としていたため、景の子を大奕、粛の子を大城と名付けた。景・粛らはともに政事に参与し、人々はこれを怨み憤った。従弟の従事中郎張憲は棺を輿に乗せて切に諫めたが容れられなかった。
- 寧康三年、苻堅は強盛となり常に併呑の志を抱き、たびたび攻め入ってきたため兵に休む年がなかった。また河州刺史李辯に晋興太守を領させ枹罕に戻し鎮守させ、涼州の治所を金城に移そうとした。天錫は大いに恐れ、姑臧に壇を築き三牲を供え、典軍将軍張寧・中堅将軍馬芮らを率いて遠く晋の三公と盟誓を交わし、大司馬桓温に書を献じ、翌年の夏に共に大挙し上邽で会することを約した。従事中郎韓博・奮節将軍康妙を遣わし上表しあわせて盟文を送った。博は弁舌に優れ、温はこれを高く評価した。かつて大会の席で温は司馬刁彛に博をからかわせたところ、博は当意即妙に切り返し、満座は感服した。
前秦の総攻撃と降伏
- 太元元年夏五月、天錫が在位十三年目の年、前秦の苻堅は詔を下し「張天錫は藩を称し位を受けたとはいえ臣道はまだ純粋でない、使持節武衛将軍苟萇・左将軍毛盛・中書令梁熙・歩兵校尉姚萇らに兵を率いさせ西河に臨ませ、尚書郎閻負・梁殊に詔を奉じて天錫を朝廷へ召させよ、もし王命に背くならば直ちに軍を進め討伐せよ」と告げた。当時秦の歩騎十三万に加え、秦州刺史苟池・河州刺史李辯・涼州刺史王統に三州の兵を率いさせ萇の後続とした。
- 秋七月、負・殊が姑臧に至ると、天錫は官属と議論し対応を問うた。禁中録事席仂は「愛子を人質に出し重宝を贈ってその軍を退かせ、その後ゆっくり策を練るべきです」と述べたが、衆は仂を老いた臆病者と見て皆怒り抗戦を主張した。天錫は自ら晋の列藩として境を保つことを志し、袖をまくり大声で「私の決意はすでに固まった、降を口にする者は斬る」と言い、負殊に生死の覚悟を問わせた。負らは言葉を屈しなかった。天錫は怒り軍門に縛りつけ、軍士に矢を射させた。
- 天錫の嫡母、厳氏は涙を流し、秦の威勢を説き降伏を勧めたが、天錫は聞かず、龍驤将軍馬建に二万の兵を授け防がせた。
- 八月、梁熙・姚萇・王統・李辯は清石津から渡り驍烈将軍梁済を河会城で攻め、済は部衆を率いて降った。甲申、苟萇・済は石城津から梁熙らと合流し纒縮城を攻め落とした。馬建は恐れ楊非から退き清塞に駐屯した。天錫はさらに征東将軍常拠に三万の兵を授け洪池に、自ら残りの五万を率い金昌に駐屯させた。安西将軍で燉煌の宋皓は天錫に降伏を勧めたが、天錫は怒り皓を宣威将軍広武太守に貶めた。
- 辛章は城を固守し、晋興相彭和・西平相趙疑と共に糧道を絶ち決着をつけることを謀った。常拠もまた先に姚萇を撃とうとしたが天錫の命を待ったため取りやめとなった。姚萇は甲士三千を前鋒とし、馬建は一万の兵で防戦したが大敗し降伏を迎えた。残兵は散り逃げ、常拠・席仂はいずれも戦死した。
- 癸巳、秦兵は清塞に入り、天錫は再び司兵趙充哲・中衛将軍史景らに精鋭五万を授け萇と赤岸で交戦させたが再び秦兵に破られ、充哲は戦死し景もまた陣中で没した。折しも風が吹き視界が暗くなり、天錫は大いに恐れ自ら城を出て戦ったが、城中でも叛く者が現れ、天錫は窮迫し数千騎と共に姑臧へ逃げ戻った。
- 甲午、秦兵は姑臧に至り、天錫は左長史馬芮の言に従い、素車白馬で自ら縛につき棺を輿に乗せて軍門で降伏した。苟萇は縄を解き棺を焼いて長安へ送った。涼州の郡県はことごとく秦に降った。九月、苻堅は梁熙を涼州刺史とし姑臧を鎮守させ、豪族七千余戸を関中へ移し、その他は元通り安堵させた。天錫を帰義侯侍中比部尚書に封じ、後に右僕射に遷した。当初秦軍が天錫を征伐しようとした際、あらかじめ長安に邸宅を築いておき、天錫が至るとそこに住まわせた。
予言の的中と晩年
- 先立って駿が即位したばかりの頃、涼州で童謡が流行り、劉曜・石虎がいずれも涼を伐って克服できず、苻堅に至ってようやく降ったことをこの謡は示していたのであった。また天錫の住まいである西昌門と平章殿が理由なく崩れたことがあり、また天錫は緑色の犬が城の東南から入り自分に噛みつこうとする夢を見た。後に苟萇が姑臧を攻め落とした際、緑地に錦の袍を着て東南の門から入城したのは、まさにこの夢の通りであり、旬日を経て国は滅んだ。また楊の木に松が生えたのは、永久の事業がまさに危亡の地に集まろうとしている天の戒めであった。また天水太守の史稷が突然の病で卒したが五十日を経て蘇生し、涼州の謙光殿の中がすべて白瓜になっている夢を見たと語ったが、この時に至り秦は中書令梁熙らを遣わし征伐に来た、熙の小字は白瓜であった。
- その後、天錫は苻融の征南司馬となり堅に従い寿陽(一に春とも)まで至ったが、堅の軍が敗れると、陣の南から建康へ逃れた。詔が下され、一度の敗北をもって才ある者を廃すべきではないとし、天錫を左員外散騎常侍とした。また詔して張軌以来の功を偲び、天錫を西平郡公の爵位に復すべしとされ、まもなく金紫光禄大夫を拝命した。
- 天錫は若くして文才があり誉れは遠近に広まり、辺境の国とはいえ人並み外れた傑物であった。皇京(建康)に才人が多いと聞き憧れの念を募らせていた。ある時なお江渚にいた頃、司馬著作(姓氏不詳)が訪れたが、その容貌が卑陋で見るべきところもなかったため、来たことを後悔し、辺境の出であることを理由に自ら固く構えていようと思っていた。王珣は俊才と美誉で名高く、これを聞いて訪ねてきた。至ると天錫はその風格が清らかで言葉も流暢、古今を論じて悉く通じ、また人物や氏族についても由来を語り証拠立てて説明したのを見て、驚き敬服した。
- 帰朝後、天錫は非常に寵遇されたが、朝士は彼が国を滅ぼし身が虜となった経緯からこぞってこれを謗った。しかし孝武帝には深く重んじられ、参内するたびに終日語り合ったという。当時会稽王道子(一に孝武とも)が西土で何が美(一に貴とも)とされるかと問うと、天錫は「桑の実は甘く香り、鴟鴞(ふくろう)の皮は音を響かせ、純酪は性を養い、人には妬み心がありません」と答えた。
- その後、天錫は精神が衰え、官位にはあったが二度と重んじられることはなくなった。隆安年間、会稽世子元顕が権勢を握ると、常に天錫を招き戯れの相手にした。家が貧しかったため廬江太守に任じ本官はそのままとした。桓玄の時代、四夷を懐柔しようとして天錫を護羌校尉涼州刺史に用いたが、まもなく卒した。鎮西将軍金紫光禄大夫を追贈され悼公と諡された。子の大予は後に河西へ逃れ、呂光の時代に兵を挙げ姑臧を攻めたが克服できず、光に殺された(詳細は「光伝」に見える)。
- そもそも張軌が東晋の永寧元年、辛巳の歳(301年)より涼州を治めてより天錫の敗亡の年、丙午の歳(376年)に至るまで、あわせて八主(一に九とも)、七十六年であった。