十六国春秋前涼錄二 張寔

家督継承と愍帝への忠誠

  • 張寔(一に宴とも)、字は安遜。軌の世子。学問を重んじ明察、賢を敬い士を愛した。晋に秀才として推挙され尚書郎に任じられたが、永嘉元年、驍騎将軍を固辞し涼州へ戻ることを願い出て、帝はこれを許し議郎に改め任じた。姑臧に至ると曹祛討伐の功により建武亭侯に封じられ、西中郎将に遷り福禄県侯に爵位を進めた。
  • 建興二年夏五月、軌が没すると、長史張璽らは上表し寔が父の位を嗣ぐことを求めた。冬十月、愍帝は策書を下し「そなたの父・武公は西夏に勲功を著した、そなたは英俊にして剛毅、まさに西海の模範たるべき人物、いま使持節都督涼州諸軍事西中郎将涼州刺史領護羌校尉西平公に任ずる、謹んでこれを承け、先人の事業を大いに広め王室の藩屏となってほしい」と告げた。
  • 建興三年冬十月、蘭池長の趙嬰(一に奭とも)が上言し、軍士の張氷が青澗水の中で玉璽を得たことを伝えた。鉗鈕(印の紐飾り)は水面に光を放ち「皇帝行璽」の文字が刻まれていた。群僚は上表し慶賀し寔の徳を称えたが、寔は「これは臣下が得るべきものではない、私は常に袁本初(袁紹)が肘に璽を巻き付けた故事を憤っている、諸君はなぜ軽々しくこのようなことを言うのか」と述べ、使者を送り京師へ献上させた。

政治への諫言と挙兵

  • 建興四年二月、寔は国中に令を下し「私は忝くも先人の跡を継ぎ、刑政が百姓の患いとならぬことを願っているが、近年飢饉と旱魃が相次いでいる、これは恐らく政務に欠けるところがあるためだろう、いまより私の罪を面と向かって指摘する者には束帛を、翰墨で私の過ちを陳べる者には筐篚を、市で誹謗する者には羊・米を報いよう」と述べた。賊曹佐の高昌隗瑾が進言し「聖王が大事を挙げる時は必ず三訊の法(民意を三度確認する制度)を重んじます、いまは事の大小を問わずすべて明公お一人で決裁され、もし誤りがあれば下は責めを分担できません、群僚は威を畏れ面従するばかり、これでは悪はすべて上に帰し、たとえ千金の賞をかけても誰も進言しなくなりましょう、あらゆる政事を群下に諮ってから採択し実行すべきです」と述べた。寔はこれを喜び従い、瑾の位を三等進め帛四十匹を賜った。
  • 冬十一月、劉曜が長安に迫ると、寔は督護王該らに歩騎五千を率いさせ京師救援に赴かせ、あわせて諸郡の貢計・名馬・方珍・経史図籍を献じた。帝はこれを嘉し都督陝西諸軍事を拝命させ、寔の弟・茂を秦州刺史とした。この年、金城の令居・楊枝の二県を分割し永登県を立て、あわせて三県を合わせ広武郡を立てた。

愍帝の降伏と涼州の独立姿勢

  • 建武元年正月、寔はなお建興五年と称していた。黄門郎史淑・侍御史王冲が長安から涼州へ逃れ、愍帝が劉曜に降伏しようとしている旨を伝えた。その前日、帝は淑らに詔を持たせ寔へ送り、劉聡・劉曜の禍と京師陥落の経緯を述べ、「そなたは代々忠貞を篤くし勲功は西夏に高く四海が仰ぎ見るところ、朕の頼みとするところである、いまそなたを大都督涼州牧侍中司空承制行事に進める、琅邪王は宗室の親賢だが遠く江表にある、朕はすでに琅邪王に大位を摂るよう詔した、そなたはどうか琅邪王を助け艱難を共に済ってほしい」と告げた。
  • 淑らが姑臧に至ると、寔は三日にわたり大いに哭礼し、天子が蒙塵の身にあることから謙譲(一に冲譲とも)し拝命しなかった。寔の叔父・肅は当時建威将軍西海太守であったが、京師が危機にあると聞き先鋒として救援に赴くことを願い出たが、寔はその老齢を理由に許さなかった。まもなく京師陥落を聞き悲憤のあまり没した。寔は自ら侍中司空大都督涼州牧承制行事を称した。
  • 太府司馬韓璞・滅冦将軍田斉・撫戎将軍張閬・前鋒督護陰預に歩騎一万を授け東へ国難に赴かせ、討虜将軍陳安・元太守賈騫・隴西太守呉紹にそれぞれ郡兵を統率させ璞らの前駆とし、璞に「以前遣わした諸将の多くは命令に背き、それぞれの考えが異なり食い違いが生じた、いまそなたに五将を督させる、軍事は一体のごとくあるべきで、食い違いや異論を私の耳に届かせてはならない」と戒めた。
  • また相国南陽王司馬保に書を送り「王室に事あればこの身を投げ出すことを忘れず、私の州は遠方にあり艱難が続いている、それゆえ以前賈騰(一に騫とも)を遣わし貴公の動静を見させたが、道中で符命の勅を受け騰を軍から呼び戻したところ、まもなく北地陥落・長安への迫りを聞いた、いま改めて韓璞らを遣わす、ただ公の命に従うのみ」と伝えた。璞らはついに進軍できず引き返し南安に駐屯すると、諸羌が道を断ち百余日対峙、糧は尽き矢も尽きた。璞は車を引く牛を殺し士に振る舞い、涙ながらに衆を励まし、太鼓を打ち鳴らし戦いに臨み、折しも撫戎将軍張閬が金城の軍を率いて到着し挟撃、大破して数千を斬った。
  • 当時焦崧・陳安が兵を挙げ隴右を侵し東で劉曜と対峙、秦雍の民は十のうち八、九が死んだが、涼州だけは無事であった。先立って永嘉年間、長安で「秦川の中、血は腕を没す、ただ涼州のみ柱に倚りて観る(一に看とも)」という童謡が流行っていたが、この時に至りその謡言は的中したのであった。

元帝擁立の献策

  • 太興元年三月、焦崧・陳安が兵を挙げ上邽に迫ると、南陽王保は使者を送り寔に急を告げた。寔は金城太守竇濤を軽車将軍とし督威遠将軍宋毅・和苞・張閬・宋輯・辛韜・張選・董広に歩騎二万を授け赴かせ、軍が新陽に進駐した頃、愍帝崩御の凶報が至り、素服して哀を挙げ三日間大いに哭礼した。
  • 当時保は帝号を僭称しようと謀っており、破羌都尉張詵は寔に「南陽王は国の疎属、無上の恥を忘れて速やかに自ら尊ぼうとしている、天はその図籙を授けず徳もその天運に応じるに足りない、結局は時難を済える者ではない、晋王(司馬睿)は明徳あり近藩として先帝に頼られてきた、上表し聖徳を称え即位(一に称号とも)を勧め、諸藩に檄を伝え相府に副言すべきです」と進言、寔はこれに従い天下に檄を馳せ晋王を天子に推戴し、牙門蔡忠を遣わし江南へ上表し即位を勧めた。至った頃には元帝はすでに建康で即位しており、年号を太興と改めていたが、寔は結局江東の年号を用いず、なお建興六年と称していた。この年、寔は刀百振りを作らせたが、理由なくすべてに「霸」の文字が生じたという。

陳安の乱と司馬保の最期

  • 太興二年夏四月、南陽王保は愍帝崩御を聞き自ら晋王を称し建康と改元、百官を設置し、使者を遣わし寔を征西大将軍開府儀同三司に任じ食邑三千戸を増した。陳安が保に叛き自ら秦州刺史を称すると氐羌の多くがこれに応じ、保は窮迫し上邽を離れ別将張春と共に南安の祁山へ戻った。寔は将軍韓璞に歩騎五千を授け救援に赴かせ、安は退いて綿諸を保った。保は上邽へ戻ったが、まもなく再び安に敗れ、使者を寔のもとへ送り援軍を乞い、寔は再び威遠将軍宋毅を遣わすと、安は退いた。
  • 太興三年正月、晋王保は劉曜に迫られ桑城へ遷った。張春は保を奉じて寔のもとへ逃れようと謀ったが、寔は保が宗室の重鎮であることから、もし河右に至れば人心が動揺すると考え、将軍陰鑒(一に監とも)に保を迎えさせ、表向きは翼衛としつつ実は寔がこれを防いだのであった。折しも鑒が到着する前に保は害され、その軍勢で涼州へ逃れた者は一万余人に及んだ。

劉弘の邪教と寔の暗殺

  • 寔は地の険阻さと遠さを恃み、軍勢の強さから次第に驕り高ぶるようになった。当時祁山で地震が起こり、中陶原坂から三里にわたり下の川を覆い隠すほどであったが、突如見えなくなり坂上には草木だけが残っていたという。寔は夢に、住まいの梁の間に人の姿があるが頭がないのを見て、しばらくして消えたという。寔はこれを深く忌み嫌った。先立って「蛇利砲、蛇利砲、公の頭は地に墜ちても気づかず」という童謡が流行っていた。
  • 夏六月、京兆の人・劉弘が邪教を奉じ涼州の天梯第五山に客として住み、山の穴の中に灯を燃やし鏡を懸けて光明を演出し百姓を惑わした。教えを受ける者は千余人に及び、寔の側近も皆これに帰依していた。帳下の閻渉(一に沙とも)・牙門の趙卬らは弘の同郷であり、弘は彼らに「天が私に神璽を授けた、涼州の王となるはずだ」と語り、渉・卬はこれを信じ、密かに寔の側近十余人と謀り寔を殺し弘を主に立てようとした。
  • 寔の弟・茂はこの謀を察知し、弘らの誅殺を求め、寔は牙門将史初にこれを捕らえさせようとしたが、史初が到着する前に渉らはこれを知らぬまま、その夜に刃を懐に忍ばせて侵入し、寔を外寝で斬った。弘は史初が至ると「使君はすでに死んだ、私を殺して何になる」と言ったが、史初は怒って弘の舌を切り取り投獄、姑臧の市で車裂きにし、その一党数百人を誅殺した。寔はこの時年五十、在位六年。寧陵に葬られ私諡は昭公とされた。東晋の元帝は大司馬涼州牧を追贈し諡を元公とした。その子孫が帝号を僭称すると明王と追尊し廟号を高祖とした。