十六国春秋南燕錄二 慕容超
南燕の第二代にして最後の君主、字は祖明(?–410年)。備徳の兄・北海王納の遺腹の子として羌の地に生まれ、長安では狂人を装って身を隠し、姓名を変えて広固へ逃げ帰り、子のない備徳の後継となった。即位後は公孫五楼を重用して宗室・旧臣を離反させ、後秦に母妻の返還を求めて藩を称した。東晋を侵して伎人を補おうとしたことから劉裕の北伐を招き、臨朐に敗れ広固に籠城の末に捕らえられ、建康の市で斬られて南燕は滅んだ。
年表(12件)
- (義熙元年)405年備徳の死を受けて帝位を僭称し、大赦して太上と改元、段氏を皇太后に尊ぶ
- 405年北地王鍾・段宏らを外任に出し、公孫五楼を腹心として重用する
- 太上二年406年桂陽王鎮らが青州・徐州・兗州を攻め、鍾・凝は秦へ、法・段宏は北魏へ逃れる
- 太上二年406年太尉封孚が没し、肉刑と九品官人法の復活を議させたが群議が分かれ実現せず
- 太上三年407年張華らを秦へ送り太楽の伎人百二十人を献じ、母と妻を返還される
- 太上四年408年南郊の祭祀で凶兆が相次ぎ、成公綏の諫めに大赦するがまた五楼を用いる
- 太上五年409年慕容興宗らに宿豫を攻略させ、男女二千五百人を掠して太楽に配す
- 太上五年409年東晋の劉裕が北伐を開始、五楼の献策を退けて大峴の守りを固めず
- 太上五年409年臨朐で劉裕に大敗し、段暉ら大将十余人を失って広固の小城に籠る
- 太上五年409年降伏を勧めた霊台令の張光を自らの手で殺す
- 太上六年410年悦寿が門を開いて広固は陥落、脱出を図って捕らえられる
- (義熙六年)410年建康の市に送られて斬られ、南燕は二世十一年で滅びる。享年二十六、在位六年
苛烈な出生の経緯
- 慕容超、字は祖明。備徳の兄・北海王納の子(納は一に汭とも)。納は物静かで深慮に富み、外見は訥弁だが内には聡敏さを秘めていた。苻堅が鄴を破ると納は広武太守となったが数年で官を辞し、母の公孫氏と共に弟の備徳のもとへ赴き張掖に住んだ。備徳が堅に従い南征する際、金の刀を残し母に別れを告げて発った。備徳が燕王垂と共に山東で挙兵すると、張掖太守の苻昌は納と備徳の諸子を捕らえことごとく誅殺した。公孫氏は老齢であったため免れ、納の妻・段氏は懐妊しており処断が決まらず郡の獄に囚われた。獄掾の呼延平は備徳の元部下で、かつて死罪を犯した際に備徳に赦された恩があり、密かに公孫氏と段氏を連れて羌族の地へ逃れた。
- 段氏は超を産み、超が十歳の時、公孫氏は病に伏し死に際して超に金の刀を授け「お前の伯父はすでに鄴都で中興を果たしたと聞いている、私は老いて病み、もう会えないだろう、もし天下が太平になったら、この刀を持って東へ帰り伯父に返しなさい」と言い残した。呼延平はさらに超母子を連れて呂光のもとへ逃れ、呂隆が前秦に降ると超は涼州の民と共に長安へ移された。まもなく呼延平が没すると、超は十日にわたり号泣した。超の母は「私たち母子が生き延びられたのは呼延氏の力による、平はいま亡くなったが、私はお前にその娘を娶らせて厚恩に応えたい」と語り、超はその娘を娶った。
長安での韜晦と燕への帰還
- 超は長安に至ると、伯父たちが東方にいることから秦人に目をつけられることを恐れ、狂人を装い(一に「佯」とも)市で物乞いをして暮らした。秦人はこれを賤しんだが、東平公姚紹だけはこれを見て非凡と気づき、姚興に「慕容超の姿は堂々として偉丈夫、とても本物の狂人とは思えません」と進言した。興は超を召して語らせたが、超は深く自らを隠し、わざと的外れな答えをしたり、問われても答えなかったりした。興はこれを大いに卑しんで紹に「諺に『美しい皮でも愚かな骨を包むわけではない』というが、まったくその通りだ」と述べ、そのまま解放した。これにより超は自由に往来できるようになった。
- 済陰の人・宗正謙は占相に長け、西の長安へ来て道端で占いを売っていた。超が通りかかりこれを見て謙のもとへ赴き相を見てもらうと、謙はその姿貌を非凡と評した。超は内心これを胸に秘めた。備徳は納に遺腹の子が秦にいると聞き、済陰の呉辯を密かに遣わし様子を見させた。辯は宗正謙を通じて超に伝え、超は母や妻にも告げず密かに姓名を変え、謙と共に帰路につき、関所の警戒を避けるため自ら「張伏生」と称し、二十日をかけてようやく梁父に至った。広固に至ると金の刀を差し出し、祖母の臨終の言葉を詳しく伝えた。備徳はこれを撫でさすりながら号泣した。
- 超は身長八尺、腰回りは九囲、風采秀でて容姿も見るべきものがあり、姿と器量は備徳に似たところがあった。備徳は非常に礼遇し、初めて名を「超」と定め、北海王に封じ侍中驃騎大将軍司隷校尉を拝命させ、開府して属官を置き、当代の賢者を選んで僚佐とした。備徳には子がなく超を後継にしようと考え、超のために万春門内に邸宅を建て朝夕見舞った。超もまた備徳の意を深く理解し、内にあっては歓びを尽くして仕え、外にあっては身を低くして士に接したため、内外の名声はこぞって超に集まった。まもなく太子に立てられた。
即位と重臣の不和
- 備徳の死後、超は東晋の義熙元年に帝位を僭称し、境内に大赦を行い太上と改元、備徳の后・段氏を皇太后に尊んだ。北地王鍾を都督中外諸軍録尚書事、海南王法を征南大将軍都督徐兗揚南兗四州諸軍事とし桂陽王鎮に開府儀同三司を加え、尚書令封孚を太尉、鞠仲を司空、楽浪王恵を司徒、潘聡を左光禄大夫、段宏を右光禄大夫、封嵩を尚書左僕射、済陽王凝を右僕射とし、その他文武もそれぞれ序列に応じ任じた。超は公孫五楼を腹心として重用し、これは超が最も信頼する人物であった。
- 備徳の旧臣である段宏や北地王鍾らは皆不安を覚え外任を求めたため、宏を徐州刺史、鍾を青州牧とした。当時公孫五楼は武衛将軍領屯騎校尉として内政に参与しており、太尉封孚は超に「近親の者を外に置かず、よそ者を内に置かないものです(『載記』には「五大は辺に在らず、五細は内に在らず」に作る)、鍾は国の宗臣で社稷が頼みとする人物、宏は外戚の重鎮で百姓の信望も篤い、まさに宰輔として補佐すべきなのに、遠く外方に鎮守させるべきではありません」と進言した。
- 超は即位したばかりで鍾らの権勢が強すぎることを忌み、この件を五楼に問うたが、五楼は朝政を専断したいと思っており、鍾らが内にいることを望まず、たびたび讒言を弄した。孚の進言はついに実行されなかった。鍾・宏はいずれも不満に思い、互いに「黄犬の皮も結局は狐の裘を補うことになるのでは」と語り合った。五楼はこれを聞き、両者の間の溝は次第に深まっていった。
鍾・段宏・南海王法の離反
- 太上二年夏、雲がないのに雷が鳴った。秋八月、先立って超が長安から梁父まで来た際、当時兗州刺史であった南海王法の鎮南長史悦寿が戻って法に「先ほど北海王の子に会ったが、天資は寛大で高雅、神々しさは並外れていた、初めて天族(一に「天授」とも)には玉のような逸材が多いことを知った」と語ると、法は「昔成方遂は衛太子を偽称し誰もこれを見抜けなかった、この一族もそうでないと誰が言えようか」と述べた。超はこれを聞き怒りを露わにし、法もまた怒って超を外館に置いた。超と法はこれ以来溝ができ恨みはますます深まり、備徳の死に際しても法は葬儀に駆けつけなかった。この頃、超は使者を送り法を責めた。
- 法は常に禍が及ぶことを恐れ、ついに北地王鍾・徐州刺史段宏らと共に謀反を企てた。超はこれを知り召還を命じたが、法と鍾はともに病と称して赴かず、超はその一党である侍中河間王統・右衛将軍東陽王根・散騎常侍段封を捕らえ処刑し、左僕射封嵩は車裂きの刑に処した。嵩の弟の西中郎将封融は北魏へ亡命した。超はまもなく桂陽王鎮らに鍾を青州で(欠字二字)攻めさせ、王昱らに段宏を徐州で攻めさせ、右僕射済陽王凝と中書令韓範に法を兗州(一に梁父とも)で攻めさせた。昱らは莒城を攻略、段宏は北魏へ逃れた。封融もまた盗賊を集め石城塞を襲い鎮西大将軍余鬱を殺し、青土は震撼し人々は異心を抱いた。
- 凝は韓範を殺し広固を襲撃しようと謀ったが、範がこれを密かに知り兵を率いて凝を攻め、凝は梁父へ逃れた。範はその軍勢も合わせ梁父を攻め落とし、凝は前秦へ、法は北魏へそれぞれ逃れた。桂陽王鎮は青州を攻略、鍾は妻子を殺し地下道を掘って脱出、高郡公始と共に単騎で秦へ逃れた。
肉刑復活の議論
- この頃、超は政務を顧みず狩猟に耽り、旧制度を勝手に変更したため朝野の期待は失われ百姓は苦しんだ。僕射の韓詧は切に諫めたが容れられなかった。冬十月、太尉封孚が没した。超はまた肉刑・九品官人法の復活を議論しようとし、境内に詔を下し、永康以来の混乱で律令法制が失われたことを述べ、先帝が中興したものの兵乱がまだ続き制度を整える暇がなかったこと、いまや国内は無事なので制度を修定すべきことを述べ、不忠不孝の者への刑罰は斬首だけでは足りず烹刑・轘刑(煮る刑・車裂きの刑)を法に加えるべきだとし、肉刑については先聖の経典にある不易の制度で漢の文帝がこれを軽んじたのは度を失していたと論じ、いま犯罪が増え死者が多いのは肉刑の教化上の効果を軽んじた結果だとし、光寿・建熙年間に二祖もこれを議論したが実現しなかったと述べ、博士以上の官に呂刑・漢魏晋律令を参考に燕律を議論編纂させるとした。刑罰の中でも不孝の罪より大きなものはなく、轘裂・烹煮の刑は五刑(一に「五品」とも)の範囲外だが古来行われてきたと述べ、また九品官人法と魏の九品中正制のいずれが優れているかも議論させたが、群臣の意見が分かれ結局実現しなかった。
- 十二月丁未、熒惑・太白が共に羽林に入り、また壁宿で合するという天変があり、占いは「燕は滅ぶ」と出た。この年、高句麗が使者を送り千里馬・生きた熊の皮を敷物として献じ、超は大いに喜び水牛と人語を話す鳥を返礼に贈った。
母妻の帰還交渉
- 太上三年正月、超は淮北を侵し徐州の下邳まで至った。秋七月、御史中丞封愷を秦へ遣わした。超の母と妻は先に長安にあり姚興に人質として拘束されていたため、愷が至って返還を求めると、秦主の興は「昔苻氏が敗れた際、太楽の伎人たちはすべて燕に入った、燕はいま藩を称している、伎人を送れないなら呉の民千人を求める、それが叶えば母子を還そう」と答えた。
- 愷が戻ると超は群臣に詳しく議論させた。左僕射段暉は「太上(劉邦の父)は楚に囚われても高祖は方針を変えなかった、いま陛下は社稷を継いでおられる以上、私的な親愛の情のために尊号を降すべきではありません、太楽の伎人はいずれも先代の伶人(一に「先代の遺音」とも)、彼らに与えて風俗を変えさせるべきではない、いっそ呉の民を掠奪して与えるべきです」と述べた。尚書張華は「もし呉の辺境を侵略すれば必ず隣国の恨みを買います、こちらが行けば向こうも来る、兵は連なり禍は結ばれ、国家の福ではありません、昔孫権は民の命を重んじ自ら身を屈して魏に臣従し、恵王は愛児の首を惜しんで志を捨て斉を尊びました、まして陛下の慈しみ深き母君が人手(一に「慈徳が秦の掌中にある」とも)にある以上、方寸の心が乱れるのも当然、どうして虚名を惜しんで屈従を拒めましょうか、しばらく統天の号(皇帝号)を降し至孝の情を示すべきです、中書令韓範は智謀が並外れ弁舌も人を動かすに足り、かつて姚興と共に前秦の太子舎人であった間柄、彼を遣わして号を降し和を修めれば必ず志を遂げられましょう」と述べた。超は大いに喜び「張尚書は私の心を得た」と述べ、韓範を姚興のもとへ遣わし上表し藩を称した。
- 範が長安に至ると、興は範に「以前封愷が来た時、燕王は朕と対等の礼をとった、いま卿が来たのは、恭しく帰属するためか、小が大に事える義に依るものか、あるいはひたすら孝敬をもって母のために屈するためか」と問うた。範は「昔周の爵位は五等あり、公侯にも品階の差があり、それに応じて大小の礼が生まれます、いま陛下は命世の資質で龍のごとく興り西秦の地に光宅されました、我が主君は祖宗の遺業を承け東斉に都を定め、天下を分かち南面して並び立つ帝、通聘し好誼を結ぶには謙虚な姿勢が尊ばれるはず、それなのに使者に対し驕った態度で臨まれるのは、大秦の堂々たる盛徳を損ない皇燕の巍々たる美徳にも傷をつけることになりましょう」と答えた。興は怒って「そなたの言う通りなら、大小の理由で来たのではないということか」と言うと、範は「大小の義もありますが、我が君の純粋な孝行の心が重華(舜)にも勝るからこそです」と答えた。興は「私は長らく賈生(賈誼)のような人物を見なかったが、自分がこれに勝ると思っていた、いま見るとそなたに及ばない」と語った。
- そこで範のために旧交の礼を設け、平生を語り合い、興は「燕王とは以前会ったことがある、その風格は立派だが機知弁舌についてはまだ分からない」と言うと、範は「大弁は訥なるがごとしと聖人も称えています」と答えた。興は笑って「使者としての誉れを演出する者と言うべきだな」と述べた。範は機を見て興を説き、興は大いに喜び範に千金を賜り超の母と妻を返還することを許した。
- 折しも済陽王凝が梁父から秦へ逃れており、興に「燕王が藩を称したのはもともと徳を推してのことではなく、権りに母のために屈しただけです、母がひとたび還れば二度と臣従しなくなるでしょう、まず伎人の送付を人質とし(一に「制する」とも)、その後に還すべきです」と進言、興の意向は変わり、範に「朕は燕王の家族を必ず還すつもりだが、いま暑さが厳しい、秋の涼しさを待つべきだ」と告げた。
- 八月、秦は兼員外散騎常侍韋宗を派遣し使者として来た。超は群臣に宗を迎える礼を議論させ、張華は「陛下は先に上表された以上、いま北面して詔を受けるべきです」と述べたが、封逞は「大燕は七代にわたり栄光を重ねてきたのに、なぜ一朝にして小僧のために節を屈するのですか」と反対した。超は「朕は太后のために屈するのだ、諸君は何も言うな」と述べ、北面して詔を受け、宗に千金を贈った。
- 冬十月、左僕射張華・給事中宗正元を秦へ遣わし返礼、あわせて太楽の伎人百二十人を献じた。興は大いに喜び華を招き宴を催し、酒がまわり音楽が奏でられると、秦の黄門侍郎尹雅は華に「昔殷が滅びようとした際、楽師は周へ帰した、いま皇秦の道は盛んで、燕の楽が朝廷に来る、興廃の兆しはここに現れているのではないか」と語った。華は「古来帝王の道は一様ではなく、権謀の理は功が成る所に会するもの、老子は『まさに取ろうとするなら必ず先に与えよ』と言っています」と答えた。興は怒って「昔斉楚が弁を競った際は二国が兵を興したものだ、そなたは小国の臣でありながら、どうして朝士に対抗しようとするのか」と言うと、華はへりくだって「上国がすでに小国の臣を遣わし寡君にまで累を及ぼす以上、臣がどうして応えぬままでいられましょうか」と答え、興はこれを是とした。
- そこで超の母と妻を還し、資財と礼を厚くして送り出した。十一月、張華は長安を発ち、宗正元が先に馳せ戻り報告すると、超は大いに喜び征虜将軍公孫五楼に騎兵二千を授け国境まで出迎えさせ、超自らも六宮を率いて馬耳関まで出迎えた。
即位の祥瑞ならぬ凶兆
- 太上四年正月、超は母と妻の帰還を機に境内に大赦を行い、父の北海穆王納を穆皇帝に追尊、母の段氏を皇太后に立て長楽宮に住まわせ、妻の呼延氏を皇后とした。南郊で祭祀を行い薪を焚いたが、炎は上がったのに煙が出なかった。霊台令の張光は密かに人に「いま火は盛んなのに煙が消えている、国は滅びるのではないか」と語った。超が壇に登ろうとすると、馬ほどの大きさで鼠に似た形の赤い獣が円丘の傍らに現れ、まもなく姿を消した。しばらくして大風が突然巻き起こり天地は昼なのに暗くなり、行宮の儀仗・帷幄はすべて壊れ裂けた。超は恐れて密かに太史令成公綏に問うと、綏は「陛下が姦臣を信用し賢良を誅殺し、賦税の取り立てが煩雑で労役も苦しいことの結果です」と答えた。超は恐れて大赦を行い、公孫五楼らを譴責したが、まもなく再びこれを用いた。
- この年、広固で地震があり、天斉の水が湧き、井戸の水があふれ、汝水が涸れ、黄河・済水は凍結したが澠水だけは凍らなかった。超はこれを不吉に思い太史令李宣に問うと、宣は「澠水が凍らないのは帝京に近く日が近いためです」と答えた。超は大いに喜び宣に朝服一具を賜った。高句麗が再び使者を送り千里の人十人・千里馬一匹を献じ、兗州の人・王満(一に蒲とも)が二千の兵を率いて降り美女・馬(鬣が地から九寸離れている名馬)を献じ、満は長水校尉に任じられ廩丘公に封じられた。
侵略策と公孫五楼の専横
- 太上五年正月正旦、超は東陽殿で群臣に朝賀を行った際、楽を聴いて舞の隊列が備わっていないことを嘆き、伎人を秦に送ったことを悔い、東晋を侵略し民を掠奪して伎人を補おうと議論した。領軍将軍韓詧(『載記』には韓謨に作る)は「先帝は旧京が陥落してより翼を三斉に収め、時運が至らぬ間は上智の者すら謀を控えられました、いま陛下は成された規範を継承しておられる以上、関を閉じて力を養い賊の隙を窺い先業を回復すべきです」と諫めたが、超は「私の計はすでに定まった、そなたと話すことはない」と答えた。
- 二月、将軍慕容興宗・斛穀提・公孫帰らに騎兵を率いさせ宿豫を侵しこれを攻略、陽平太守劉千載・済陰太守徐阮はいずれも捕らえられ、大いに掠奪して帰り、男女二千五百人を選んで太楽に配し教習させた。当時公孫五楼は侍中尚書令左衛将軍として朝政を専断しており、宗族・親戚も皆要職に就いて左右を固め王公も内外みなこれを畏れていた。超は宿豫の功を論じ、五楼の兄・公孫帰を冠軍将軍常山公、叔父の公孫頽を武衛将軍興楽公、斛穀提らを郡県公に封じた。桂陽王鎮は「恩賞は功に応じて授けるもの、功なくして侯に封じることはないといいます、いま公孫帰は禍を結び兵を動かし百姓を残害しました、陛下がこれを封じられるのはよろしくないのではありませんか」と諫めたが、超は怒って答えず、以後百官は口を閉ざし誰も進言しなくなった。尚書都令史の王儼は五楼に諂い仕え尚書郎に遷り済南太守として外任し、後に尚書左丞として朝廷に戻ったが、当時の人々はこれを「侯たることを得んと欲すれば五楼に事えよ」と評したという。
- 五楼はまた公孫帰らに騎兵三千を率いさせ南陽(『載記』には済南に作る)に侵入させ、太守趙光(一に元とも)を捕らえ男女千余人を掠奪して帰った。
劉裕の北伐開始
- 夏四月、東晋の丞相劉裕が水軍を率い北伐、丹陽尹孟昶に中軍留府事を監督させ、劉敬宣を中軍諮議参軍とし冠軍将軍を加え、淮水を経て泗水に入った。五月、下邳まで進むと船艦・輜重を留め、歩軍を琅邪まで進め、通過するたびに城を築いて留守を置いた。ある者が裕に「燕人がもし大峴を厳重に守るか、堅壁清野の策をとれば、大軍が深く侵入しても物資の供給がなく、功を挙げられないだけでなく引き返すこともできなくなるでしょう」と言うと、裕は「そうではない、鮮卑は貪欲で遠慮に欠け、勝利を望みまた穀物を惜しんでいる(一に「ただ利益と虜獲を望み、退けば作物を惜しむだけだ」とも)、我らが孤軍で深く侵入しており長くは持たないと思い込み、臨朐に進駐し広固で守るくらいしかしないだろう、我が軍が峴を越えれば何を恐れることがあろうか」と述べた。
- 超は晋軍来襲を聞き東陽殿で群臣を引見し防戦策を議論した。征虜将軍公孫五楼は「呉の兵は軽装で果断、速戦を利とします、大峴を占拠し入らせぬようにし時を稼いで鋭気を挫くべきです、その後徐ろに精騎二千を選び海沿いを南下してその糧道を絶ち、別に段暉に兗州の兵を率いさせ山沿いに東下させ挟撃する、これが上策です、各守宰に険に拠り自守させ、必要な蓄えの他はすべて焼き払い作物も刈り取り、堅壁清野で機を待つ、これが中策です、賊を峴に入れて城を出て迎え撃つのは下策です」と述べた。
- 超は「我が京都は繁栄し戸口も多い、青々とした苗が野に広がっているのを急に刈り取ることもできない、いま歳星は斉に居り、天道からすれば戦わずして勝てるはず、我らは五州の強みに拠り山河の固めを帯び、戦車一万乗、鉄馬一万群、麦や穀物が野に満ちている、なぜ苗を刈り民を移して自ら弱体化させる必要があろうか、いっそ敵を峴を越えさせて平地に至らせ、そこで徐ろに鉄騎で衝けば(衝は一に踐とも)これで捕虜にできる」と述べた。輔国将軍広寧王(寗は一に寧とも)賀頼盧が苦しく諫めたが聞き入れられず、退いて五楼に「主上は私の計を用いない、滅亡は近い」と語った。
- 太尉桂陽王鎮は「平原で馬を用いる方が有利です、峴を出て迎え撃つべきで、戦って勝てなければなお退いて守ることもできます、昔安成君は井陘の関を守らず、ついに韓信に屈しました、諸葛瞻は束馬の険に拠らず、ついに鄧艾に捕らえられました、私は天の時よりも地の利が勝ると思います」と述べたが、超はまたも従わなかった。鎮は退いて韓詧に「主上は迎え撃って敵を退けることもできず、かといって民を移し清野の策をとることもせず、敵を腹の中に招き入れ座して包囲攻撃を待とうとしている、まさに劉璋のようだ、今年国は滅び、私は必ず死ぬだろう」と語った。超はこれを聞き大いに怒り、鎮を捕らえ投獄した。
臨朐の戦いと広固包囲
- そして莒城・梁父の二つの守備を整え、城壁と堀を修築し士馬を選抜し精鋭を蓄えて待った。劉裕が大峴を越えても超の兵が出撃してこないと知ると、裕は手を挙げ天を指し喜色を浮かべて「我が事は成った」と言った。左右が理由を問うと、裕は「兵はすでに険を越え、士には必死の志があり、余った兵糧は畝に残されたまま、賊はすでに我が掌中に入った」と答えた。
- 六月己巳、裕の軍は東莞に進駐した。超は老弱を広固に残し、左将軍段暉・輔国将軍賀頼盧・征虜将軍公孫五楼らに歩騎五万を率いさせ臨朐に進駐させたが、晋軍の勢いの盛んなことを聞き大いに恐れ、自ら歩騎四万を率い暉らのもとへ赴いた。臨朐には巨蔑水があり城から四十里の距離にあった。超は公孫五楼に「いまこそ川の水源を占拠すべきだ」と告げ、五楼は騎馬で急ぎ水源を占拠しようとしたが、裕の前鋒(『通典』には龍驤将軍とある)孟龍符が先に騎兵を率いてすでに水源を占拠しており、五楼は敗れて戻った。裕は車四千乗を左右両翼として方陣を組み徐々に進み、臨朐に至ると超の兵が四方から迫り、裕は劉敬宣・兗州刺史劉藩・并州刺史劉道憐らに防がせ、日が傾いても勝敗はつかなかった。
- 参軍胡蕃が裕に「燕は全軍を挙げて出撃しており、臨朐城中の守備は必ず手薄なはず、いま奇兵を間道から送りその城を奪い旗を斬れば、これぞ韓信が趙を破った策です」と進言、裕は蕃と諮議参軍檀韶・建威将軍向弥に密かに軍を燕兵の背後に回らせ臨朐を襲わせた。弥は甲を着けて先陣を切り城を落とし牙旗を斬った。超は大いに恐れ単騎で城南の段暉のもとへ逃れた。裕はこの機に乗じ兵を放って猛攻、暉の軍は大敗、裕軍は暉ら大将十余人を斬った。超は広固へ逃げ戻り、裕軍は超の玉璽・御輦・豹尾などを獲得、勝ちに乗じて追撃し広固まで至った。丙子、大城を落とした。超は外郭の人々を小城へ移し立て籠らせ、裕は長い包囲陣を築き、降伏した者を慰撫し賢俊を抜擢したため夷夏はこぞって喜んだ。斉地の食糧が豊富だったため江淮からの漕運はすべて停止した。
援軍要請と韓範の投降
- 六月、超は尚書郎張綱を秦へ遣わし救援を求め、桂陽王鎮を赦し録尚書都督中外諸軍事に進め、引見して謝罪した。鎮は「もう一戦して天命を争うべき時です、金帛・宮女をすべて放出し一戦を促すべきです」と述べた。司徒楽浪王恵は「秦は勃勃と対峙しているとはいえ、我らの患いとするに足りません、二国は連衡し唇歯の関係にあります、尚書令韓範は徳望が高く燕秦双方から重んじられています、彼を遣わし援軍を求め時艱を救うべきです」と述べた。超はこれにより恵の計に従い、再び韓範と王簿を秦へ遣わし援軍を求めた。
- 超の尚書、略陽の桓遵とその弟で京兆太守の桓苗(苗は或いは留とも)は城を越えて出降した。ある者が裕の軍に「燕人の張綱は巧みな技術を持つ、もし張綱を捕らえて攻城具を作らせれば、広固は落とせよう」と告げた。秋七月、綱は長安から戻る途中、太山太守申宣に捕らえられ裕のもとへ送られた。裕は綱に城を巡らせて「劉勃勃は秦軍を大破し、秦には救援に来る兵はない」と叫ばせると、城内の者は皆顔色を失った。
- 劉毅は上党太守趙恢に千余人を授け裕を援護させ、北方の民で武器を執り糧を背負って裕のもとへ帰属する者は日に千を数えるほどだった。裕は包囲をますます強めた。超は救援を求めたが得られず、綱がかえって捕虜になったことに激怒し伏兵に弩を射させたため、裕軍は一時後退した。左僕射張華・中丞封愷はいずれも裕に捕らえられており、裕は華・愷に超へ書を送らせ早期の降伏を勧めさせた。超は裕に書を送り藩臣となることを願い出て大峴以南の地を境界とし馬千匹を献じて和好を通じることを求めたが、聞き入れられず、江南からは続々と援軍が到着した。八月、封融が裕の軍に降った。
- 九月、尚書張俊が秦から戻ると、これも裕に降り「燕人が固守できているのは外に韓範を頼り秦の援軍を望んでいるからです、密かに範を誘い甘言と利益で釣るべきです」と説いた。裕はこれに従い範を散騎常侍として招く上表を行い、書を送って招いた。
- 折しも姚興は将軍姚彊に歩騎一万を授け範に従わせ、姚紹のもとへ赴かせ洛陽で合流し共に援軍として遣わし、使者を裕に送り威嚇したが、裕は使者を通じて「姚興に伝えよ、我が燕を克服した後、三年兵を休めてから関洛を取ろうと思っていた、虜が自ら送られてくるというなら速やかに来るがよい」と応じた。折しも姚興は勃勃に敗れ、彊を呼び戻した。
- 韓範は嘆じて「天は燕を滅ぼそうとしているのだ」と語った。長水校尉王満は範に秦へ逃れるよう勧めたが、範は「劉裕は布衣から起こり桓玄を誅して晋室を復興させた、いま兵を興し燕を討ち、向かうところ悉く崩壊させている、これはほとんど天授であって人力ではない、燕が滅べば秦もその次となろう」と述べ、折しも裕の書を得てそのまま裕に降った。裕は範に「そなたは申包胥のような功を立てようとしていたはずなのに、なぜ空しく戻ってきたのか」と尋ねると、範は「これは天が我が国を見捨てられ明公を助けているということでしょう、智者は機を見て行動するもの」と答えた。
- 翌日、裕は範を連れて城を巡らせ、城中の人々は動揺し守る意志を失った。裕は範に城下で禍福を告げるよう求めたが、範は「まだ燕を裏切る謀に加わるには忍びません」と答え、裕はこれを嘉して強要しなかった。
- 超の左右は範の一族を誅殺し以後の離反を防ぐよう勧めたが、超は敗北がすでに目前に迫っていると知り、また範の弟の詧が忠誠を尽くし二心がないことから、いずれも範の一族を赦した。冬十月、段宏が北魏から裕のもとへ逃れた。十二月乙巳、太白が虚宿・危宿を犯すと、霊台令の張光は超に降伏を勧め、超は怒って自らの手で光を殺した。この年、東莱で血の雨が降り、広固の城門で夜に鬼が泣いたという。
広固陥落と超の最期
- 太上六年正月甲寅正旦、超は天門に登り城上で群臣に朝賀を行い、馬を殺して将士に振る舞った。乙卯、超の寵姫・魏夫人が超に従い城に登り、晋軍の盛んな様子を見て涙を流し、曲が終わっても止まなかった。韓詧が「陛下は百六の巡り合わせに遭われ、まさに力を尽くし自ら奮い立ち士民の志を鼓舞すべき時なのに、かえって女子の悲泣に向き合われるとは」と諫めると、超は目を拭いて謝り「私は先祖代々の基業を築くのに大変な苦労をした、いま外敵がこのようであれば、いつか守り切れなくなるのではと恐れ、それで泣いていたのだ」と答えた。尚書令董銑が超に降伏を勧めると、超は大いに怒りこれを獄に繋いだ。
- 二月、輔国将軍賀頼盧・征虜将軍公孫五楼が地下道を掘って晋軍を攻撃したが晋軍に利あらず。河間の人・玄文が裕に、かつて石虎が曹嶷を攻めた際に城を巡る澠水を塞ぐ策で嶷を降し、慕容恪が段龕を攻めた際も同じ策で成功した故事を語り、旧来の基がなお残っているので修築して塞ぐべきだと進言、裕はこれに従い塞がせた。超と城内の男女はことごとく脚気の病に苦しみ、病人が大半を占め、降伏する者が相次いだ。超は輦に乗って城に登り、尚書悦寿は超に降伏を勧めたが、超は嘆じて「興廃は命だ、私はむしろ剣を振るって死ぬとも、璧を銜えて生きながらえることはできない」と答えた。
- 当時、張綱は裕のために衝車を作らせ攻城具を精巧にしたため、城上の火や石・弓矢はまったく通用しなくなった。超は激怒し、綱の母を城上に懸け八つ裂きにした。
- 裕は広固を幾月も包囲しまさに落とそうとしていたある夜、突然ガチョウほどの大きさの蒼い鳥が裕の帳に飛び込み座り、皆これを驚き不吉と見た。参軍胡蕃だけは立ち上がって祝賀し「蒼黒は胡虜の色、鵝は我が方の意です、胡虜が我が方に帰する大吉の徴です」と述べ、皆は大いに喜んだ。丁亥、裕は全軍で城を攻めた。「今日は往亡日で軍を動かすには不利です」(一に「今日は往亡の日、兵家の忌む日である」とも)と言う者があったが、裕は「我が往くは彼が亡ぶこと、なぜ不利であろうか」と述べ、四方から猛攻を加えた。広固では夜に鬼が泣き止まず、長さ十余丈の流星が広固に落ちた。悦寿が門を開いて晋軍を迎え入れ、超は左右数十騎と共に城を越え包囲を突破して逃れようとしたが、追撃軍に捕らえられた。
- 裕は降伏しなかった罪を数え上げたが、超は顔色一つ変えず何も言わず、ただ母を劉敬宣に託しただけであったという(蕭方等『三十国春秋』は「見事なものだ、その言葉は必ず親のことに及び、最後まで孝を忘れない、これぞ人の将に死なんとする、その言や善し、と言うべきである」と評している)。
- 裕は広固が長く落ちなかったことに憤り、住民をことごとく穴埋めにし妻女を将士への恩賞にしようとしたが、韓範が「彼らは皆衣冠の旧族、先帝の遺民です、いま王師が罪を弔い民を救うべき時に、彼らをすべて穴埋めにすれば、どこに帰るところがありましょうか」と諫めると、裕は態度を改めこれに謝したが、それでも鮮卑の王公以下三千余人を斬り、家族一万余人を没収し妻女は将士への恩賞とし、城郭を壊した。捕虜一万余り、馬二千匹を獲得、金鉦・輦・豹尾など旧来の儀仗もなお残っていた。超を建康の市へ送り斬った。享年二十六、在位六年。
- 韓範は後に劉穆之に疎まれ裕に讒言されて殺された。
- そもそも徳が東晋の安帝隆安四年、庚子の歳(400年)に斉の地で帝号を僭称してより超に至るまで二世、東晋の義熙六年、庚戌の歳(410年)に劉裕に滅ぼされるまで、あわせて十一年であった。