羅什との再会
- 仏陀耶舎、罽賓の人。沙勒国に入り、羅什は当初これに師事し深く敬愛した。什が母と共に亀茲へ戻った後まもなく、沙勒国王が没し太子が即位した。折しも苻堅は呂光を西の亀茲討伐に遣わし、亀茲王は沙勒に救援を求め、沙勒は自ら兵を率い救援に向かい、耶舎を太子の輔佐に残し後事を委ねた。しかし救援軍が到着する前に亀茲はすでに敗れ、王が帰って羅什が呂光に捕らえられたことを伝えると、耶舎は「私と羅什は出会ってから久しいが、まだ十分に心を通わせていない、まさか捕虜になるとは」と嘆いた。十余年を経て東の亀茲へ移った。什が姑臧にいた頃、使者を送り耶舎を招いたが、耶舎が糧を携えて赴いた時にはすでに什は長安に入っていた。興が什に宮女を強いたと聞き、耶舎は「什はまるで良い綿のようなのに、なぜ茨の中に入れさせるのか」と嘆いたという。
慎重な出仕と厚遇
- 什は耶舎が姑臧にいると知ると興に迎えを勧めたが興は聞き入れず、什に経蔵の翻訳を命じた。什は「教えを広めるには文義を円通させるべき、貧道はその文を誦じてはいるがまだその理を十分に理解していない、仏陀耶舎こそ深遠な理解を持つ人物、いま姑臧にいるので、どうか詔を発して招いていただきたい」と述べた。興はこれに従い使者を送り迎え厚遇しようとしたが、耶舎は贈り物を受け取らず「詔がすでに下った以上、駅伝を馳せて檀越(施主)の礼を尽くすべきだが、もし羅什のような礼遇を受けられないなら、まだお受けするわけにはいかない」(『高僧伝』には「そうでなければ貧道は北山の北にとどまるだろう」とある)と笑って答えた。使者が戻りこれを興に伝えると、興はその慎重さに感心しなお敬意を深め、改めて礼を尽くして招いた。
- 耶舎が長安に至ると興は自ら郊外まで出迎え、逍遥園に別に精舎を建てさせたが、耶舎は供された物をほとんど受け取らず、時が来れば托鉢に出て一日一食で過ごしたという。この頃什はすでに『十住経』の訳出を始めて一月余りが経っていたが疑義が多く筆が進んでいなかった。耶舎が至ると共に検討し、辞句と理義が整った。耶舎は赤い髭の持ち主で『毘婆沙論』の理解に優れ、当時「赤髭毘婆沙」と呼ばれた。衣鉢・臥具は部屋三つ分にもなったが気にも留めず、興はこれを売却し城南に寺を建てさせた。
- 耶舎は先に『曇無徳律』を暗誦していたが、司隷校尉姚爽はその暗誦に誤りがあるのではと疑い、試しに羌の薬方書、およそ五万言を暗誦させたところ、一日で全て正確に唱え文字も誤らなかったため、人々はその強い記憶力に感服したという。後に罽賓へ帰った。