羅什門下での研鑽と著作
- 僧肇、京兆の人。家が貧しく写本の仕事で生計を立てるうち経史を広く読み典籍に通じた。二十歳になる頃には名声が関中に轟き、当時評判を競う者たちが千里の道を糧を背負って関へ入り議論を挑んだが、肇は思考が深遠で弁舌にも優れ、機に応じ鋭く応対し全く動じることがなかったため、京兆の宿儒や関外の英才もその弁才に一目置いた。後に羅什が関中に至ると、肇は遠くから師事し、什はその才を大いに称賛した。什が長安に至ると肇も随行し、興は肇に僧叡と共に逍遥園に入り什の経論校訂を助けるよう命じた。肇は『般若無知論』二千余言を著し什に示すと、什はこれを読み称賛した。さらに『涅槃無名論』を著し、十演九折(問答形式)で数千言に及んだ。
- 論が完成すると興に上表し、天が一を得て清く地が一を得て安らかであるように王侯も一を得て天下を治めるとし、興の聖徳を称え、涅槃の道は三乗の帰するところ大乗経典の淵府であり、視聴の及ばぬ幽玄な境地で凡情では測れないと述べた上で、什の門下で十余年学びながらも涅槃の一義について確信を持てずにいたところ、什の死後は師に問う術もなく永遠の恨みとなっていたが、興が皇后の兄・嵩からの問いに答えた際に涅槃無名の義に触れていたことに触発され、この論を著したと述べた。興はこれに深く感じ入り丁重な返答をし、書写させ子弟に配布させるほどその時代に重んじられたという。
羅什への誄
- 肇はまた羅什のために誄(弔文)を著した。道は自ら弘まるものではなく必ず人によって弘まり、俗は自ら覚るものではなく必ず導師を待つ、というところから説き起こし、什が先覚の遺志を継ぎ、道の衰退を憂い蒼生の困窮を悼んで乱世に身を現し、仏法の頽れた綱を結び直し窮まった運命を繋ぎ直したこと、前秦・後秦の二代の王が師として迎え、その教化により多くの人々が正道に帰したことなどを讃え、その死を深く悼んだ。誄の末尾では、道を体現した人が世を去り、頼るべき指針を失った世の悲しみを詠じ、肇自身がかつて什のもとで学んだ恩義に触れつつ、志半ばで師を失った哀切を述べた。肇は東晋の義熙十年にあたる後秦の弘始十六年、長安で没した。