十六国春秋後秦錄十 鳩摩羅什(一名 鳩摩羅耆婆)

出自と入関の経緯

  • 鳩摩羅什、天竺の人。家系は代々功績篤く、祖父の達多は洒脱で非凡、父の鳩摩羅炎は聡慧で美徳を備え、亀茲王に迎えられ国師となった。王の妹は才知明敏で一目見て理解するほどであったが、羅炎を見初め妻となった。什は胎内にあった時から母の理解力は常人の倍に達し、七歳で母と共に出家、一日に三万二千言を暗誦しその意味も自ら理解した。名声は葱嶺の東西に広まった。母は什に「大乗の深遠な教えは不可思議、これを東土へ大いに広めるべきだが、そなた自身には利がない」と語ると、什は「大士の道は他者を利し己を忘れるもの、たとえ我が身が炉や釜で焼かれる苦しみを受けようとも悔いはありません」と答えた。
  • 前秦の苻堅は驍騎将軍呂光らに西の亀茲討伐を命じた際、堅は光に「朕は西域に鳩摩羅什という者がおり法相に深く通じ後学の宗とすべき人物だと聞く、賢哲は国の大宝、亀茲を克服したなら急ぎ送り届けよ」と告げた。光は亀茲を克服し涼州へ戻ったが、その頃堅は姚萇に殺され、光は喪服を着て三軍を弔い、涼州の城南で元号を建て自立した。呂隆の時代、姚萇は関中で帝を僭称しており、什の名を聞き使者を送り迎えようとしたが、隆は什の智謀を恐れ姚氏の謀に利用されることを懸念し東入を許さなかった。萇の死後、子の興が即位すると再び使者を送り迎えようとし、隆はついに上表し什を長安へ送った。興は国師の礼で厚く遇し西明閣・逍遥園に住まわせ経典の翻訳に当たらせ、僧䂮・僧遷・法欽・道流・道恒・道標・僧叡・僧肇ら八百余人に什の教えを受けさせ、経論あわせて三百余巻を訳出させた。

翻訳の苦心と興との三世論

  • 沙門慧叡は才識に優れ什の翻訳を助け、しばしば什と西方の言語表現の異同を語り合った。什は「天竺の風俗は文章の形式を非常に重んじ、宮商(音律)や韻律を管弦に合わせることを善しとする、しかし胡語から秦語に改めるとその華麗さは失われ、大意は得られても文体は大きく異なる、まるで飯を噛んで人に与えるようなもので、味を失うだけでなく吐き気を催させてしまう」と語り、「もし私が筆を執って大乗阿毘曇を著せば迦旃延子にも劣らぬものが書けように、いま秦の地には深く理解できる者が少ない」と悽然として語ることをやめたという。ただ興とだけは『実相論』二巻を著し『維摩経』に注をつけ、言葉を発すれば即座に文章になり削る必要もなく、その言葉はいずれも婉曲で優雅、玄妙の極みであった。興はこれを神のごとく崇めた。
  • かつて草堂寺で経を誦した際、興と朝臣・沙門数千人が粛然として聴聞した。興は什に三世論について「かつて諸法師に三世(過去・現在・未来)が有るか無いかを尋ねたが、意見が定まらなかった」と諮問し、「三世は一体で循環しつつ働く、過去は滅んでもその理は常に存在する」という自説を展開し、「聖人は三世を見るというが、もし無ければ聖人には見るものがないことになり、もし有ると言えば常見の誤りを犯すことになる、しかし過去・未来は眼前に見えなくとも理として常に相因っている」と論じた。什はこれに答え、色蘊(五蘊の一つ)は三世が和合してこそ成り立つものであり、心が心を生じるのは種子が種子を生じるようなものだから過去は無いとする説には因のない誤りが生じる、といった仏教の縁起説を丁寧に説明し、過去・未来を固定的に「有る」「無い」と断定することはできず、これらは「時に応じて仮に説かれるもの」にすぎないと結論づけた。あわせて『大品般若経』の句を引き、この対話を経の要諦とした。

人柄と晩年

  • 什は人柄が聡明で洞察力に富み、超然として群を抜き、機に応じて理解する速さに並ぶ者がなかった。また性格は篤実仁厚で広く人を愛し、虚心に人を導き終日倦むことがなかった。ある日、什は突然高座を下り興に「二人の子供が私の肩に登ってきた、妻を娶りたい」と告げた。興は「大師の聡明・悟りは海内無双、もし後継がなければ法の種が絶えてしまう」と述べ、宮女を進めた。一度の交わりで二子をもうけて以後、什は僧房に住まわず別に邸舎を立て供給も豊かに与えられた。これに倣おうとする僧があると、什は針を盛った鉢を差し出し「もし私を見習おうとするなら、この針を食べてから妻を娶るがよい」と言い、匙で針をすくって食べて見せ、通常の食事と変わらぬ様子であった。僧たちはこれを恥じてやめたという。什は講説のたびにまず自らを「臭い泥から蓮花が生じるようなもの、蓮花だけを採り泥は取るな」と譬えて語ったという。
  • 関中に住むこと九年、什は病に伏し衆生に別れを告げて「仏法の縁でお会いできたが、まだ十分に心を尽くせぬまま来世に至ろうとしている」と述べた。什は自らの訳出した経論三百余巻について、繁雑を刪ることまではできずとも本旨に誤りはないはずだと述べ、後世に伝えられ広く通じることを願い、衆人の前で「もし翻訳に誤りがなければ、焼身の後も舌が焼け爛れることのないように」と誠実の誓いを立てた。弘始十一年秋八月二十日、什は没した。興は逍遥園で外国の作法に倣い火葬に付し、遺骸は焼け砕けたが、舌だけは焼け残ったという。