十六国春秋後秦錄九 尹緯

萇への出仕と剛直な諫言

  • 尹緯、字は景亮。天水の人。一族の尹赤は襄(姚襄)の司馬であった。緯は若くして大志を抱き産業を営まず、身長八尺、腰回りは十囲、気骨あふれる堂々たる体躯で議論も爽快闊達、書伝を読むたびに宰相が功勲を立てる場面に至ると書を措いて感嘆したという。苻堅の時代、尹赤が姚襄に降ったことから尹一族は皆禁錮され仕官できなかったが、緯は晩年になってようやく吏部郎となり、その気骨ある志は同僚から畏れられた。堅の末年、妖星が東井に現れると、緯は堅の滅亡を悟り内心密かに喜び、天に向かって踊り拝礼し、そのまま涙を流し長嘆した。友人の略陽の桓識がこれを怪しんで問うと、緯は「天の時はこの通り、まさに覇王が龍となって飛び立つ秋(とき)、我らが策を振るう日が来た、しかし知己に出会うことは難しく、我が才志を発揮できないのではと恐れる、それゆえ喜びと恐れが交わる思いなのだ」と答えた。
  • まもなく萇の別騎校尉となり、萇が馬牧にいた頃、緯は尹詳・龎演らと共に諸豪を扇動し萇を盟主に推し、右司馬に遷った。苻堅が敗れると、萇は緯を遣わし堅に禅譲を求めさせ、堅は緯に「そなたは朕のもとで何の官であったか」と問うと、緯は「尚書郎です」と答え、堅は嘆じて「そなたは宰相の才、王景略(王猛)に匹敵する人物だ、それなのに朕はこれに気づかなかった、滅びるのも当然か」と語った。
  • 緯は性格が剛直質朴で清廉、張子布(張昭)の人となりを慕っていた。馮翊の段鏗は諂い巧言に長けていたが、萇はその博識を愛し侍中に登用しようとし、緯は不可としたが萇は聞き入れなかった。緯はたびたび衆人の前で鏗を辱めたため、鏗は内心これを不満に思った。萇はこれを聞き緯に「そなたは学問を好まないというのに、なぜ学者を憎むのか」と尋ねると、緯は「私は学問を憎んでいるのではありません、鏗の不正を憎んでいるだけです」と答えた。萇が「そなたは自分を分かっていないようだ、いつも自分を蕭何になぞらえているが、実際はどうか」と言うと、緯は「漢の高祖と蕭何はともに布衣から起こったため互いに尊び合いました、陛下は高貴の身から起こられたため、臣を賤しめておいでです」と答えた。萇が「そなたは実際に及ばないのに、なぜそれを分かっていないのか」と重ねると、緯は「陛下は漢の高祖と比べていかがですか」と問い、萇が「朕は実に漢の高祖には及ばない」と答えると、緯は「陛下は蕭何のような者から遠ざかっておられます、だから及ばないのです」と答えた。萇が「漢の高祖が陛下に勝る理由は何か」と尋ねると、緯は「漢の高祖は段鏗のような輩を遠ざけることができたからにほかなりません」と答え、萇は黙り込み、鏗を北地太守に左遷した。

興への輔弼と死

  • 萇の死後、緯は興と共に苻登を滅ぼし興の事業を成し遂げ、これらはすべて緯の力によるものであった。輔国将軍司隷校尉尚書左右僕射を歴任し清河侯に封じられた。友人の隴西の牛寿が漢中の流民を率いて興に帰順すると、緯に「あなたは平生から自分は時世を明察していると自負していた、才は功業を立てるに足り、いままさにその時が来た、まさに歴史に名を残すべき日ではないか」と語った。緯は「私が望むのはまさにその通りだが、まだ管仲のように宰相の任を委ねられたわけでも、旅の途上で韓信を見出したわけでもない、そのことを恥じるばかりだ、しかし功業を立てることについては、かつての言葉に背いてはいないと自負している」と答えた。興はこれを聞き緯に「そなたは寿とどんな話をしたのか、功業を立てることを、そなたは古人と比べてどう思うか」と尋ねると、緯は「私は実に古人に恥じるところはありません、時運が到来した時には太祖(萇)を輔翼し八百年の基を開き、陛下が即位された当初には苻登を討ち滅ぼし秦雍を平定しました、生きては朝廷の重臣となり死しては廟庭に配祀される、古の君子もまさにこの通りであったはずです」と答え、興は大いに喜んだ。緯の死に際し興は深く悼み、司徒を追贈し萇の廟に配祀、忠成侯と諡した。