秦州経営策と剛直な人柄
- 吉成詵、南安の人。建初元年、萇が秦州刺史王統を攻め落とすと羌胡でこれに応じた者は二万余戸に及んだ。詵は萇に「私の州は人口も多く地勢も険しく英傑が林のごとく、まさに用兵の国です、王秦州(統)は賢才を登用できず三分の鼎足を気取り珠玉を弄ぶだけでこの有様に陥りました、陛下は秦州の金帛を放出し六軍に施し、賢者を顕彰し善行を表して我が州の期待に応えるべきです」と進言、萇はこれを是とし尚書郎に抜擢した。
- 萇が苻登と長年対峙していた頃、左僕射尹緯・尚書令姚晃は詵に「苻登という窮した賊は幾年経っても滅びず、姦雄が各地に割拠し夷夏を扇動し二心を抱く者が多い、どうすればよいだろうか」と問うた。詵は「主上の権謀は無限、信賞必罰を徹底され賢能の士は皆喜んで推戴しています」と答えた。緯が重ねて問うと、詵は「三秦は天府の国、主上はすでに十分の八を得ています、いま憂慮すべきは苻登・楊定・雷悪地くらいのもの、その他は取るに足りません、苻登は烏合の犬羊のような寄せ集めで一時的に生き延びているにすぎず、その智勇は至尊(萇)に及びません、覇王の興隆には必ず障害の除去が伴い、その後にこそ大業が定まるものです、昔漢魏の興隆もいずれも十余年を要してようやく天下を統一しました、主上の神算は内に明らかで英武は外に発しており天下無敵と言えます、登を取るのは容易いこと、どうか徳を布き仁を行い賢を招き士を納れ、兵を励まし馬を秣って天の時を待たれますように、もし大業が成らなければ、この詵の腰を斬って明公にお詫びいたします」と答えた。緯がこれを萇に伝えると萇は大いに喜び、詵に関内侯の爵位を賜り給事黄門侍郎に遷した。
- 詵は風格が秀でて超然とし、常に天下の是非を己の任と考えていた。京兆の韋高は放埓で世俗に囚われず阮籍の人となりを慕い、母の喪にありながら琴を弾き酒を飲んでいたが、詵はこれを聞いて「私は密かに刃を振るいこの者を斬り風教を正すべきだ」と嘆き、剣を抜いて高を捜したため、高は恐れて身を隠し生涯詵に会おうとしなかったという。