弼誅殺への貢献と泓への忠節
- 姚紹、萇の庶母弟で興の叔父。撫軍将軍となり東平公に封じられた。興が洛陽を攻略すると都督山東諸軍事豫州牧として仮に洛陽を鎮守した。興が北魏を討伐した際、紹は洛陽の兵を率いて平望に集結したが敗れて帰った。興が病に伏すと、紹は禁兵を統率し宿衛したが、広平公弼が乱を謀り病と称して朝廷に出なかった際、興はこれを聞いて激怒し密かに弼を捕らえる謀議をしたところ、紹は弼の羽翼であったにもかかわらず急ぎ使者を送り知らせ、興は病をおして弼に死を賜った。泓が即位すると、紹は心を尽くして一族として仕え嫌うことなく、再び軍政を総括する任を委ねられ、紹もこれに感じ入り忠誠を尽くし二心を抱かず、至るところで功を立て、侍中司隷宗正を歴任、まもなく太宰大将軍大都督督中外諸軍事に進み仮黄鉞を与えられ、侍中司隷宗正の節・録はそのままとし魯公に改封された。
予兆と最期
- 先立って紹はかつて胡僧を召し国の吉凶を尋ねたことがあった。僧は麦粉で直径一丈の大きな胡餅を作らせ、その上に座って正西を向いて先に食べ、次に正北を向いて食べ、さらに正南を向いて食べ、残りを丸めて呑み込むと立ち去り何も言わなかったという。晩年、東晋の太尉劉裕が来攻すると、紹は左長史姚洽に黄河北岸に駐屯させ糧道を絶とうとしたが、かえって敗れ洽らは戦死した。紹は洽の死を聞くと憤り病を発し血を吐いて没した。紹が没する前、全軍で函谷関を攻めた際、厨房の者が紹のために飯を炊くと、湯気が汗のように立ち上りたちまち血の生臭い臭いに変わることが幾日も続き、紹はこれを不吉に思い炊事をやめさせ諸軍から食を乞うようになったという。それから八十日後、紹は病死した。この年、東晋軍は北伐し潁川・洛陽を平定、翌年関中を席巻し、泓はついに劉裕に捕らえられ建康の市で斬られた。