十六国春秋後燕錄十 崔逞
燕から北魏への仕官
- 崔逞、字は叔祖。清河東武城の人で、魏の中尉崔琰の五世の孫。曽祖の諒は東晋の中書令、祖父の遇は石虎に仕え特進、父の瑜は黄門郎。逞は若くして学を好み文才があったが、乱世に遭い孤児となり貧しい中でも野良仕事の傍ら学問を怠らなかった。慕容暐の時代に郡の上計掾に挙げられ著作郎として『燕記』を撰し、黄門侍郎に転じた。前秦が燕を滅ぼすと斉郡太守となり、堅が敗れると東晋に仕え清河・平原太守を歴任、丁零の翟釗に捕らえられ中書令に任じられた。垂が釗を滅ぼすと秘書監となった。宝が和龍へ逃れると留台吏部尚書となったが、趙王麟が詳(慕容詳)を殺して自立すると、逞は妻子を連れて北魏へ亡命した。
- 先立って張袞がかねて太祖(拓跋珪)に逞の才を高く評価し重用すべきだと語っていたため、太祖は逞を得て大いに喜び尚書として三十六曹を統括させ政務を委ねた。逞の兄・適、字は寧祖もまた当時名を知られ、垂に仕え尚書左丞・范陽昌黎二郡太守を務めたが、逞もついには非業の最期を遂げた。