遊興と苛政
- 熙の后・小苻氏は苻謨の末娘で、名は訓英。貴嬪として迎えられ姉以上の寵愛を受け、まもなく皇后に立てられた。狩猟遊興を好み、熙も付き従って北は白鹿山に登り東は青嶺を過ぎ南は滄海に臨み、百姓は苦しめられ、兵士は豺狼に襲われたり凍死したりする者が五千人余りに及んだ。熙が高句麗を討った際も苻氏を伴い遼東まで進み、衝車や地下道で城を攻め、城が陥落しかけると熙は「賊城を平定するまで待て、朕は后とともに輦に乗って入城しよう」と将士の先陣を許さなかったため城内は防備を固め、攻めても落とせず熙はやむなく引き返した。
- また苻后のために承華殿を建てさせ、高さは承光殿の倍とし、北門から土を運ばせたため土の値段が穀物と同じになるほどであった。宿衛典軍の杜静は棺を担いで宮門に至り上書して強く諫めたが、熙は激怒しこれを斬った。苻后は真夏に凍った魚膾を、真冬に生の地黄を欲しがり、担当の役人が調達できなければ死罪に処すほど残虐であった。
苻后の死と異常な喪礼
- まもなく苻后は死去、熙は号泣し身をよじって嘆き、実の父母を失ったかのように遺骸を抱いて泣き「体はすでに冷たくなり命は尽きてしまった」と言うと倒れて気を失い、しばらくして息を吹き返した。大殮の後にも棺を再び開けて遺骸と交わり、喪服を着て粥を食べ、百官に宮中で位牌を設けて哭礼させ、僧侶にも喪服を着させ、役人に涙を流しているか点検させて忠孝の証とし、涙のない者には罪を科した。群臣は震え上がり、辛味を目にこすりつけてでも涙を作ったという。
- 高陽王隆の妃・張氏は熙の兄嫁にあたり、容姿美しく機知に富んでいたが、熙は苻氏の殉死者にしようと罪をでっち上げて殺そうとし、副葬品の靴の中から古い毛氈が見つかったことを口実に呪詛の罪に問い自殺を強いた。張氏の三人の娘は叩頭して助命を乞うたが熙は許さなかった。公卿以下兵民に至るまで墓の造営に動員し府庫を使い果たし、地下深く三重の石室を設け周囲数里に及ぶ規模とし、内部には尚書八座の肖像まで描かせた。熙は工事監督者に「よくやってくれ、朕もいずれ后に従いこの陵に入るのだから」と語り、これを聞いた者は不吉に思った。右僕射の韋璆らはみな殉死させられることを恐れ沐浴して命令を待ったという。苻氏の墓は徽平陵と名付けられた。
- 葬送の際、熙は髪を振り乱し裸足で苻后の柩を乗せた大きな轜車に付き従って歩き、北門を壊して外に出た。長老たちはひそかに「慕容氏が自ら自分の門を壊した、これも長くはあるまい」と語り合ったという。折しも中衛将軍馮跋らが門を閉じて反乱を起こすと、熙は后の柩を南苑に置いたまま髪をかき上げ甲冑を着けて急ぎ駆け戻り北門を攻めたが落とせず、やがて馮跋らに殺された。雲(高雲)が帝位を僭称すると、熙と苻后は共に徽平陵に葬られた。