十六国春秋後燕錄八 慕容会

太子選定を巡る恨み

  • 慕容会、字は道通、寶の第二庶子。建興初め(393年頃)、兄の盛と共に長子から帰り清河公に封ぜられ、まもなく王に爵を進め征北大将軍・幽平二州牧を歴任した。会の母は身分が低かったが、会は年長で多才多芸、雄略があり、垂はこれを深く評価した。当時、寶の国嗣(後継者)はまだ定まっておらず、垂は常にこれを憂えていたが、すでに会に意を寄せていた。寶の北伐の際、会に東宮の事を代行させ礼遇は太子と同じであった。垂が自ら軍を率いて魏を伐った際も、龍城は旧都で宗廟のある地であることから会に幽州を鎮めさせ東北の任を委ね、国の官府佐官には当代随一の才俊を精選して威望を高めさせた。垂は臨終に際し会を寶の後継者にするよう遺言したが、寶は末子の濮陽公策を寵愛し意は会になかった。長楽公盛もまた会と同年であることを恥じ会の下に立つことを望まず、策を後継とすべきだと述べ会を誹謗した。寶は大いに喜び趙王麟にも諮ると、麟もまた寶の意を迎合してこれに賛成し、ついに策を皇太子に立てた。会はこれを聞いて心中すでに恨みを抱いた。
  • 寶は詔を下し会に章武王宙を遣わし高陽王隆の参佐・家属を中山へ移させようとしたが、会は詔に背いて部曲の多くを留め時を移してもすぐには送らなかった。宙は年長で身分も尊いのに、会は事あるごとにこれを陵辱し、これを見る者は会に異心があることを知った。永康二年(397年)、魏が中山を伐ち城中が危急に陥ると、会は上表して難に赴くことを求め、寶もまた詔して会に幽州の衆を率いて救援させようとしたが、会は再び留まって進まなかった。寶は怒ってしきりに詔を下し厳しく咎めると、一月余りしてようやく出発した。この時、趙王麟の叛乱があり、寶は会の軍が近くにあることから麟が会の軍を奪って先に龍城に拠ることを恐れ、人を遣わして会を出迎えようとし自らは龍城へ逃れた。会は身を尽くして人を招き入れ甲を整え兵を励まし歩騎二万を率いて陣を並べて進み、薊の南で寶を出迎えた。

猜疑の深まりと魏軍撃退

  • 寶は会の態度が怏々として恨みの色があるのを怪しみ、密かに隆と農を呼んでこれを語ると、隆・農は共に「会は一年少者で方面の任を専らにし驕りに慣れているだけです、他意はありますまい」と答えた。寶はこれに従ったが、なお詔して会の軍を解き農・隆の二王に分属させた。この時、魏兵が寶を追い夏謙沢に至ると、会は寶に「兵法に『帰る軍を遮るな』とあり、また『死地に置いてこそ生きる』ともあります、今、我らはこの両方の条件を得ています」と進言し、寶はこれに従った。会は陣を整えて魏兵を迎え撃ち、魏兵は大敗し死者数千人に及んだ。
  • 会は魏を退けた功を誇り驕慢さがますます募り、隆・農がしばしばこれを咎めたためますます憤りを募らせ、また隆・農がかつて龍城を鎮め尊位と重い名望を得ていたことから、龍城に至れば権政が自分の手を離れてしまうことを恐れ、しかも終には後継者になる望みがないことを知り、ついに乱を謀った。幽并の兵はみな会の威徳を懐き、二王に属することを望まなかったため、寶に会を統帥とし京師の包囲を解かせてほしいと願い出た。寶の左右はみな会を憎み、太子になれなかった不満と衛輒のような事態への懸念を訴えたため、寶はこれを退けた。
  • 左右は寶に会を殺すよう勧め、その一党の侍御史仇尼帰がこれを聞いて会に二王を誅し太子を廃して自ら東宮に処すよう勧めたが、会はなお躊躇して決めかねた。寶は農・隆に会を早く除くよう語ったが、農は「逆心はまだ表れていないのに、自ら隠忍せず急いで誅殺すれば、父子の至情を傷つけるだけでなく、威望を大いに損なうことを恐れます」と諫めた。寶は「事が敗れた後に朕の言葉を思い出しても、その時に悔いても自らの責任だ」と述べたが、農・隆が固く諫めたためこれをやめた。会はこれを聞いてますます恐れた。

反乱と最期

  • のちに寶が広柳黄楡谷に宿営した際、会は仇尼帰・呉提・染干らに壮士二千余人を分けさせ道を分けて農・隆を襲わせ、隆を帳の下で殺し、農は重傷を負った。仇尼帰を捕らえたが、逃げて山中に隠れた。会は仇尼帰が捕らえられ事がついに露見することを恐れ、夜に寶のもとへ赴き「農と隆は謀反していたので、私がすでに除きました」と告げた。寶の意は会を誅することにあったが、表向きよい言葉で安心させた。会はそこで儀仗を立て厳戒し、道を進んで隆の遺骸を棄てようとしたが、建威将軍餘崇が涙を流して固く求めたため、車に載せて軍に随行させることを許された。農は自ら出て寶のもとへ赴くと、寶はこれを叱って捕らえるよう命じた。十余里進んだところで、寶は群臣を召して食事をしながら農の罪を議した。会が座に着くと、寶は左衛将軍慕輿騰に目配せして会を斬らせようとしたが、その頭を傷つけただけで殺せず、会は再び逃げて自軍のもとへ戻り、兵を整えて寶を攻めた。寶は数百騎で二百里を馳せ、申の刻に龍城へ至った。会は騎兵を遣わして追わせ石城まで至ったが及ばず、さらに仇尼帰らに龍城を攻めさせたが、寶は夜に兵を遣わして襲いこれを破った。
  • 会は使者を送り左右の佞臣の誅殺と自らの太子への冊立を求めたが許されなかった。会は乗輿の器服をことごとく接収し後宮を将帥に分け与え、自ら皇太子・録尚書事を称し、兵を率いて龍城へ向かい慕輿騰討伐を名目に城下に軍を留めた。寶が西門に臨むと、会は馬に乗って遠くから寶と語り合ったが、寶がこれを咎めると、会は軍士に寶へ向けて大声で叫ばせ威武を誇示させた。夕暮れに出撃すると大破され、会の兵は死傷者が半数を超え再び陣営へ逃げ戻った。侍御郎高雲は夜に決死隊百余人を率いて会を襲いこれを破ると、衆はみな逃げ散った。会は単騎で中山まで逃げ、包囲を越えて入ったが開封公詳に殺された。寶は会の母とその三子を殺した。