生涯
- 慕容温、儁の第四子。当初帯方王に封ぜられ、暐が苻堅に敗れると共に長安へ入った。垂が挙兵し鄴を攻めると、温もまた兵を率いて合流し前将軍を拝命、楽浪王に改封され、まもなく征東将軍に遷り中山に屯した。当時、中山の兵力は甚だ弱く丁零が四方に広がり諸郡を分割占拠していた。温は諸将に「我らの兵力では攻めるには不足だが守るには十分だ、驃騎(農)・撫軍(麟)と首尾呼応すれば、いずれ賊を滅ぼせる、ただ糧を集め兵を励まして時を待つべきだ」と語った。これにより旧民を撫し新参者を懐柔し農桑を勧めたため、帰属する民は日増しに相次ぎ、郡県の塁壁は争って軍糧を送り倉庫は満ち溢れた。しばしば奇兵を出して翟真を撃破し、真はあえて境内に侵入しなくなった。そのまま中山に大々的に宮室を営み、その壮麗さを極めた。また兵一万を遣わし糧を運んで垂に届けさせた。垂が北の中山へ赴くと、諸将に「楽浪王が流民を招き倉廩を実らせ、外は軍糧を供給し内は宮室を営んだ、昔の蕭何でさえこれに勝るまい」と語った。司隷校尉・尚書右僕射・冀州刺史を歴任した。その後、翟遼が丁零の故堤に偽って降らせ温の帳下に置いたが、乙酉、堤は温を刺し殺し、その長史・司馬を殺し守兵二百戸を率いて西燕へ逃げた。遼西王農は温を刺した者らを襄国で迎撃しことごとく捕らえたが、堤だけは逃げ延びた。諡を悼とした。