十六国春秋後燕錄八 慕容隆

龍城鎮撫と籠城戦

  • 慕容隆、字は道興、垂の中子。冠軍将軍・高陽王に封ぜられ、のちに農に代わって都督幽平二州諸軍事・征北大将軍・幽州牧・録留台尚書事として龍城に鎮めた。隆は農の旧制を修めてこれを広げ、遼碣(遼東・碣石)の地は安んじた。参合の敗戦後、垂が自ら衆を率いて魏を討伐しようとした際、隆を召還し、隆は龍城の甲兵を率いて中山に入ると軍容は精整し燕人の士気はやや振るった。この時、燕兵は先の敗戦から魏を恐れて誰も進もうとしなかったが、龍城の兵だけは勇敢で先を争った。寶の即位後、隆は尚書右僕射を領し兵を率いて平視を高唐に討ち平定した。魏の太祖が常山を攻めると、隆は南郭を守り衆を率いて力戦し、魏はついに退いた。
  • 中山が包囲されると城中の将士はみな出撃を望んだが、そのたびに趙王麟に抑えられ、隆が陣を整えても取りやめることが前後四回に及んだ。寶は最後まで許さなかった。諸将が固く撃つことを求めると、隆は退いて兵を整え参佐を召して「皇威が振るわず賊が内を侮っている、臣子として同じく恥じ、義において生を顧みるべきではない」と語り、甲をまとい馬に乗って門に至り命を待ったが、麟が再び固く止めたため、隆は涙を流して戻った。

龍城への脱出と最期

  • 寶が和龍を保とうと逃げようとした際、遼東の高撫は占いに優れ元来隆に信頼されていたが、密かに隆に主上だけを行かせ殿下がここに密かに留まれば大功があるだろうと語った。隆は「国に大難があり主上は蒙塵し、しかも老母は北にいる、私は北を目指して死んでも悔いはない、そなたは何ということを言うのか」と応じ、僚佐たちを一人ずつ召してその去留を問うと、司馬魯恭・参軍成岌だけが従うことを願い、他はみな留まることを望んだが、隆はいずれも許した。そのまま寶らと共に脱出し、会の軍が魏兵を引き入れてその後を追わせると、隆は陣を整えて力戦し、さらに騎兵で衝いて百里を追撃し、さらに単独で数十里追撃して戻った。旧臣で留台治書の陽璆に「中山城中に数万の兵を積みながら私の意を伸ばせなかった、今日の勝利にはかえって悔いが残る」と語り、慷慨として涙を流した。清河王会は魏を退けた功を誇り驕慢さが日増しに募り、隆はしばしばこれを咎めたため、会は深く憤りを抱き、夜に壮士を遣わし帳の下で隆を襲い殺した。会が殺されると、寶は功臣を封じ隆に司空を追贈し諡を康とした。子の崇が後を嗣いだ。