幼少期の慧眼と挙兵
- 慕容農、字は道厚、小字は悪奴、垂の第三子。九歳の時、太史令黄泓に「俗に参星と辰星は互いに見えず万人が食いちがうというが、それぞれ一晩ずつというのはなぜか」と問うた。泓は高辛氏の二子伯閼・実沈の故事を答えたが、農が「二子より前の参星辰星は何を言っていたのか」と問うと、泓は答えられなかった。垂はこれを深く評価した。
- のちに父に従って秦へ逃れ、秦がその強大さを頼みに宮室を奢侈にしているのを見て、密かに垂に「王猛の死以来、秦の法制は日ごとに頽廃しています、今またこれに奢侈が加わりました、殃いはまもなく至るでしょう」と語ったが、垂は笑って「天下の事はそなたの及ぶところではない」と応じた。
- 垂が挙兵し鄴を攻めた際、農は楷らと共に苻丕に留められていたが、垂が苻飛龍を誅したと聞いて列人へ逃れ、烏丸の魯利の家に泊まった。利の妻の勧めで利は農に仕えることを願い出、農は「私は列人で兵を集めて興復を図りたい、そなたは私に従えるか」と問い、利は「生死は殿に従います」と答えた。農は烏丸の張驤を訪ねて説くと、驤も帰属を誓った。農は列人の住民を駆り立てて士卒とし、桑や楡の木を斬って兵器とし、上着の裳を裂いて旗とした。趙秋に屠各の畢聡を説かせ、聡と諸族の首長たちがそれぞれ部衆数千を率いて馳せ参じ、農は歩騎雲集し衆は数万に達した。驤らは共に農を驃騎大将軍に推し諸軍を監統させ、才に応じて部署を定めたため上下は粛然とした。農は垂がまだ至らないうちは賞を行わなかったが、趙秋の勧めで承制封拝を行い衆心を収めた。垂はこれを聞いて善しとした。農の号令は厳整で軍は私的な掠奪をせず士女は喜んだ。
石越撃破と各地の善政
- 苻丕が石越に討伐させると、農は「越は智勇の名があるが、今、ここへ来たのは王を恐れて私を侮っているからだ、必ず備えを設けていない」と述べ、城壁修築を求める衆に「用兵の巧みな者は士の心を結ぶのであって、異物によるのではない、山河を城池とすべきだ」と応じた。越との対峙で、農は昼戦を避け夕暮れを待って撃つ策を用い、越が柵を立てて守りを固める油断を見抜き、牙門の劉木に先鋒を委ねて柵を突破させると越の兵は総崩れとなり、越と驍将毛当を斬った。
- そのまま兵を引いて垂と合流し鄴を攻めた。垂は農に東の清河・平原を巡り租賦を督させた。農は約束を明らかに立て軍令を厳正にして侵暴を許さなかったため、穀物・粟が道に連なり軍資は豊かに満ちた。垂は大いにこれを喜んだ。垂の即位後、遼西王に封じられ、まもなく使持節・都督幽平二州北狄諸軍事・幽州牧として龍城に鎮めた。農は法制を創立し事は寛簡に従い刑獄を清め賦役を省き農桑を勧めたため、住民は富み栄え、四方の流民が前後して至った者は数万余口に及んだ。龍城に五年在任し庶政は整い、上表して交代を願い出、召還されて侍中・司隷校尉に転じた。中山へ戻ると農は都督兖豫荆徐雍五州諸軍事として鄴に鎮めた。寶の即位後、都督雍益并梁秦涼六州諸軍事・并州牧に推され晋陽に鎮を移した。
参合の敗戦後の受難と最期
- 魏兵が来攻し中山が長らく包囲されると、将士はみな出撃を望んだが衛大将軍麟がそのたびに議を阻んだ。農の部将谷会帰は農に「城中の人々はみな拓跋珪の参合での殺戮で父子兄弟を失い血の涙を流し憤って魏と戦いたいと望んでいます、大王が幸いにもここに留まり衆望に応えて魏軍を撃退し畿甸を安んじ大駕を迎え奉れば、これもまた忠臣たることに変わりありません」と説いたが、農はその才力を惜しみながらも帰を殺そうとして「もしそなたの言う通りにするなら、生きることを望むより死んだ方がましだ」と述べた。そこで寶らと共に清河王会のもとへ逃げた。のちに会が乱を起こし、夜に壮士を遣わし農を襲うと、農は重傷を負い骨が砕け脳が見えるほどであったが、寶が自ら手当てをしてかろうじて命を取り留めた。左僕射に進み、まもなく司空・領尚書令を拝命、さらに大司馬・領中軍として鄴へ向かい乙連に至ったところで、長上の将士が乱を起こし鬷讓に殺された。桓烈と追諡された。