太傅評への警戒と亡命
- 慕容令、垂の世子、母は先の段氏の所生。垂が太傅評に忌まれ害されることを恐れ内心憂えながらも諸子にまだ告げられずにいた際、令は密かにこれを察して「父上は近頃憂色があるように見えます、主上が幼く太傅が賢を妬み功高く望重い者をますます猜疑しているからではありませんか」と問うた。垂は「その通りだ、私は力を尽くし命を捧げて強敵を破ったのは、もとより家国を保全しようとしてのことだったのに、功が成った後にかえって身の置き所がなくなろうとは思いもよらなかった、そなたはすでに私の心を知っている、私のためにどう謀るべきか」と応じた。令は「主上は暗愚で太傅に委任している、いったん禍が起これば発機のように速い、今、族を保ち身を全うするには、龍城へ逃れ、言葉を低くして罪を謝し主上の察するのを待つのが一番でしょう、周公が東に居た故事のように、あるいは感悟して帰ることを許されるかもしれません、それが最上の幸いです、もしそれが叶わなければ、内は燕代を撫し外は群夷を懐柔し肥如の険を守って自らを保つのも次善の策です」と答えた。垂は「善し」と述べ、密かに変装して鄴を出て龍城へ向かおうとしたが、追手が迫り日暮れとなって止まった。令は垂に「秦王がまさに英傑を招いています、そちらへ帰る方がよいでしょう」と述べ、垂は「今日の計はこれを措いて他にない」と応じ、令らと共に秦へ逃れた(詳細は垂録にある)。苻堅は垂を冠軍将軍としまた令らの才を愛して厚く礼遇し、会うたびに必ず目を注いだ。
反間の計と最期
- 王猛が洛陽を討伐した際、令を参軍に招き道案内とした。猛は元来堅に垂父子を除くよう勧めていたが堅は従わなかったため、人を遣わして垂の言葉と偽り令に「私はすでに東へ帰った、そなたも身の振り方を考えるがよい」と告げさせた。令はこれを疑い一日中躊躇し確かめる術もなかったため、旧来の騎兵を率いて楽安王臧のもとへ逃げ石門へ向かった。暐は令が叛いてから再び帰順したことについて、その父(垂)が秦に厚遇されていることから反間の計ではないかと疑い、令を沙城(龍都の東北六百里)へ移した。令は自ら終には免れられないと悟り、密かに挙兵を謀った。沙城中には謫戍の兵数千人がおり、令はみなこれを厚く撫した。牙門の孟媯を殺すと、城大の渉圭は恐れて自ら効力を申し出、令はこれを信じて左右に置いた。そのまま謫戍の兵を率いて東の威徳城を襲い、城郎の慕容倉を殺してその城を占拠、官属を配置し人を遣わして東西の諸戍を招くと、みな呼応した。鎮東将軍渤海王亮は龍城に鎮していたが、令はこれを襲おうとした。その弟の麟がこれを亮に告げると、亮は城を閉ざして拒み守った。渉圭は宿直の際に令を襲い、令は単騎で逃げ、その党はみな崩れ散った。渉圭は令を薛黎沢まで追って捕らえ殺し、龍城へ至って亮に報告、亮はこれにより渉圭を誅殺し、令の屍を収めて葬った。