十六国春秋後燕錄八 慕容永

西燕の内紛と河東王への即位

  • 慕容永、字は叔明、廆の弟運の孫。暐が苻堅に滅ぼされると、永は暐に従って長安へ移り住み、家は貧しく夫婦は常々市で靴を売って衣食を賄っていた。堅の軍が晋に敗れると、燕の旧大司馬中山王沖(当時平陽太守)とその兄で旧済北王泓(当時北地長史)はそれぞれ挙兵し郡を拠点に堅に叛いた。泓は華沢で秦兵を破ったが、沖は秦の将竇衝に敗れ泓のもとへ逃げた。泓の謀臣高蓋らは、泓の声望が沖に及ばずしかも法の運用が厳し過ぎることから、共に泓を殺し沖を皇太弟に立て承制して百官を置き、永を右僕射とした。
  • その翌年、沖は阿房城に進み拠り帝号を称し更始と改元した。沖は若くして尊貴の身に育ち、この頃には自ずと得意げになり、その毒々しく暴虐なさまは尋常でなかった。堅が五将山へ逃れ出ると、沖は長安に入り兵を放って大掠奪し、死者は数え切れないほどであった。そのまま長安に拠りこれを楽しんで帰る気配を見せず、しかも垂の威名が早くから高く関東一円を制していることを憚って進めず、農耕を課し家屋を築いて持久の計を立てたため、衆はみなこれを怨んだ。沖の左将軍韓延と許木末は衆の不満に乗じて沖を攻め殺し、沖の将段随を燕王に立て昌平と改元した。
  • 当初、沖が長安に入った際、王嘉は沖に「鳳凰、鳳凰、なぜ高く飛んで故郷へ帰らないのか、なぜここに留まって滅亡を招くのか」と語った(沖の幼名は鳳凰であったため嘉はこう述べたのである)。永は左僕射慕容恒と密かに謀り段随を襲い殺し、宜都王の子顗を燕王に立て建明と改元、鮮卑の男女四十余万口を率いて乗輿・服御・礼楽器物と共に長安を去って東へ向かった。これで長安は空になった。恒は永を武衛将軍とした。恒の弟で護軍将軍の韜は密かに二心を抱き顗を臨晋で誘い出して殺した。恒は怒ってこれを去った。永は武衛将軍刁雲と共に韜を攻めると、韜は司馬宿勒黎に迎撃させたが永はこれを捕らえ処刑した。韜は恐れて恒の陣営へ逃げた。恒は沖の子瑶を帝に立て建平と改元し沖を威皇帝と諡したが、衆はみな去って永のもとへ赴いた。永は瑶を捕らえて殺し、泓の子忠を帝に立て建武と改元した。忠は永を丞相・太尉・守尚書令とし河東公に封じた。

帝位僭称と垂による滅亡

  • 永は法の運用が寛容公平で鮮卑はこれに安んじた。東の聞喜まで至った頃、垂がすでに帝号を称したことを知り、農時を理由に進軍を止め燕熙城を築いて自ら固めた。刁雲らはさらに忠を殺し、永を持節・大都督・督中外諸軍事・大将軍・大単于・雍秦梁涼四州牧・録尚書事・河東王に推し、垂に臣従を称した。まもなく秦へ使者を送り道を借りて東へ帰りたいと求めたが、秦主丕はこれを許さず襄陵で戦い、秦兵は大敗した。そのまま長子に進んで拠り、帝位を僭称し中興と改元、儁と垂の子孫を男女問わず皆殺しにした。転じて河南を侵したが、河南太守楊佺期がこれを撃破した。その後、再び衆を率いて洛陽へ向かい、豫州刺史朱序が河陰から北へ渡り永の偽将王次らと沚水で遭遇し戦い、次は敗れて逃げ、その部将勿支・参軍趙睦を斬った。江夏相桓不才が永を追撃し太行でこれを破ると、永は退いて上党に屯した。当時、楊楷は湖・陝に数千の衆を集めていたが、永の敗北を聞いて任子を序のもとへ送り降を乞うた。序は永を追って上党の白水に至り永と対峙した。折しも垂が丁零翟釗を滑台に破り、釗は永に救援を求めたが永は出て救わず、釗は敗れて永に降った。垂はそのまま永を攻め、永は衆を率いて迎え撃ったが軍は敗れ長子へ逃げ帰った。垂はさらに軍を進めてこれを包囲し、将士は門を開いて垂の兵を入れた。垂の兵が城に入ると、永は北門へ逃げたが前駆に捕らえられ、その罪を数え上げられて処刑された(沖と永は本来西燕を称し建国九年、垂に滅ぼされたため、垂録に附す)。