十六国春秋後燕錄六 慕容熙

後燕世祖慕容垂の末子、字は道文、小字は長生(385年–407年)。後燕最後の皇帝である。勇猛果断で高句麗・契丹討伐に功を立て、盛からは「世祖の風があるが弘略だけは及ばない」と評された。盛が没すると、寵愛していた太后丁氏の後押しで太子定を退けて即位し、光始・建始と改元した。苻氏姉妹を寵愛して丁太后を死に追いやり、龍騰苑や逍遥宮・甘露殿の造営に万人規模の役徒を酷使し、高句麗・契丹への遠征を繰り返して国力を損なった。苻后の死に常軌を逸した服喪を続ける間に馮跋らが夕陽公雲を擁して挙兵し、捕らえられて殺され、後燕は四世二十四年で滅んだ。

年表(12件)
  • 燕二年385年長山に生まれる
  • 建興八年393年河間王に封ぜられる
  • 永康初396年寶に従って龍城へ逃れ、司隷校尉を拝命する
  • 長楽元年399年盛の即位で爵を公に降されるが、都督中外諸軍事・驃騎大将軍となる
  • 隆安五年401年大赦して光始と改元し、北燕台を大単于台と改める
  • 光始二年402年苻氏姉妹を納れたことを怨んだ丁太后の廃立の謀が発覚し、自殺させられる
  • 光始三年403年龍騰苑を大築して役徒二万人を動員し、貴嬪苻氏を皇后に立てる
  • 光始四年404年北の契丹を襲って大破するが、年末に高句麗が燕郡を侵す
  • 光始五年405年苻后を伴って高句麗を討ち、遼東を攻めたが大雪に阻まれて退く
  • 光始六年406年契丹遠征を転じて高句麗の木底城を襲うが克てず、凍死者を出して引き返す
  • 建始元年407年馮跋らが夕陽公雲を擁して挙兵し、龍城を奪われる
  • 義熙三年407年林中に隠れたところを捕らえられ、雲に諸子ともども殺される(三十二歳、在位七年)

出自と即位の経緯

  • 慕容熙、字は道文、小字は長生、垂の末子。燕二年(385年)、長山で生まれた。建興八年(393年)、河間王に封ぜられた。永康初め(396年)、寶に従って龍城へ逃れ司隷校尉を拝命した。段速骨の乱では諸王の多くが害されたが、熙は元来高陽王崇に親愛されていたため独り難を免れた。蘭汗の簒奪の際には遼東公とされ燕の宗祀を存続させる役目を担った(杞宋の故事に倣うものである)。長楽元年(399年)、盛の即位に伴い爵位を公に降されたが、都督中外諸軍事・驃騎大将軍・尚書左僕射・領中領軍を拝命し、高句麗・契丹討伐に従い勇は諸将に冠絶した。盛は「叔父は雄々しく果断で英壮、世祖(垂)の風があるが、ただ弘略(大局的な謀略)だけは及ばない」と評した。
  • 盛が没すると、中塁将軍抜・冗従僕射郭仲は太后丁氏に「国家は多難、年長の君を立てるべきです」と白した。当時、群望はみな盛の弟で司徒尚書令の平原公元に集まっていたが、熙は元来丁氏に寵愛されていたため、丁氏はついに太子定を廃し密かに熙を宮中に迎え入れた。翌朝、群臣が参内して初めて変事を知り、そこで上表して熙に即位を勧めた。熙は元に譲ろうとしたが元は固く辞退し、熙はついに晋の隆安五年(401年)秋八月癸巳、帝位を僭称、大臣段璣・秦興らを誅しいずれも三族を滅ぼした。甲午、大赦した。丙申、平原公元は嫌疑により死を賜った(元、字は道光、寶の第四子である)。閏月辛酉、盛を興平陵に葬った。丁氏は葬送から未だ帰らぬうち、中領軍提・歩兵校尉張仏らが旧太子定を立てようと謀ったが事が発覚し誅殺され、定もまた死を賜った。丙寅、大赦し光始と改元、北燕台を大単于台と改め左右輔の位を尚書に次ぐものとして置いた。冬十二月乙卯、魏の虎威将軍宿庫干が兵を率いて来攻し令支を攻めた。乙丑、中領軍宇文抜がこれを救援した。壬午、宿庫干は令支を抜いてこれを守った。

光始年間の対外戦争

  • 光始二年(402年)春正月丁丑、熙は平寇将軍抜を遣わし遼西を攻めさせ令支の戍を抜かせたが、宿庫干らは防戦して不利となり退却した。魏の遼西太守那頡を捕らえ、抜を幽州刺史として令支に鎮めさせ、中堅将軍遼西の陽豪を本郡太守とした。丁亥、章武公淵を尚書令、博陵公虔を尚書左僕射、尚書王騰を右僕射とした。二月甲戌、大赦した。夏五月、高句麗が宿軍を攻め、平州刺史帰は城を棄てて逃げた。冬十月、熙は旧中山尹苻謨の長女を貴人に、末娘を貴嬪に納れたが、貴嬪の方が特に寵愛を受けた。丁太后は怨み恨み熙を廃そうと謀ったが事が発覚し自殺を強いられ、諡を献幽皇后とした。十一月戊辰、淵と信を殺した。辛未、北原に狩りに出た隙に、石城令高和が尚方の兵を率いて後方で乱を起こし司隷校尉張顕を殺し、宮殿へ入って掠奪し武庫の兵器を奪い営署を脅し門を閉ざして城に登り熙を拒んだ。熙は騎兵を率いて馳せ戻ると、和の衆はみな武器を投げ出し門を開いた。反乱者はことごとく誅殺されたが和だけは逃げ延びた。甲戌、大赦した。
  • 光始三年(403年)春正月、熙は州郡および単于の北部の耆老を東宮に召し民間の疾苦を問うた。司隷部民の劉瓚が答えた内容が意に叶い帯方太守を拝命した。この月、宮室を大々的に造営した。夏四月、貴人苻氏を昭儀に立てた。五月、龍騰苑を大築し広さ十余里に及び、役徒二万人を動員し苑内に景雲山を築き基は広さ五百歩、峰の高さは十七丈に及んだ。冬十二月戊申、熙は垂の貴嬪段氏を皇太后と尊んだ(段氏は熙の慈母である)。己酉、貴嬪苻氏を皇后に立て、境内に大赦し死罪以下を赦した。辛亥、衛尉悦真を青州刺史として新城に、光禄大夫衛駒を并州刺史として凡城に鎮めさせた。
  • 光始四年(404年)夏四月、熙は龍騰苑に逍遥宮・甘露殿を建て、房が数百連なり楼閣が相交わり、天河渠を掘って水を引き宮中に入れ、さらに曲光海・清涼池を掘った。季夏の盛暑にこの工事に当たった士卒で暍死(熱中症死)した者はほぼ一万人に及んだ。鄴の鳳陽門になぞらえて弘光門を作り九重の階段を重ねた。熙が城南で遊んだ際、大柳の木の下に留まると、誰かが「大王よ、お待ちください」と呼ぶ声がしたように感じ、熙はこれを不快に思いその木を伐らせると、丈余りの蛇が木の中から出てきたという。秋七月、苻昭儀が病没し諡を愍皇后とした。苻謨に太宰を追贈し文献公と追諡した。九月、熙は北の契丹を襲いこれを大破した。冬十二月、高句麗が燕郡を侵し百余人を殺掠した。
  • 光始五年(405年)春正月、熙は高句麗を討伐し苻后も従軍した。戊申、遼東に至りこれを攻めたが克てず、折しも大雪に遭い凍死する士卒が多く、熙は兵を引いて帰った。秋八月、遼西太守邵顔が罪を得て逃亡し盗賊となった。九月、中常侍郭仲がこれを討ち斬った。冬十二月、熙は契丹を襲った。
  • 光始六年(406年)春正月、熙は苻后と共に陘北に至ったが、契丹の衆の多さを恐れ引き返そうとした。苻后はこれを聞き入れず、戊申、輜重を棄てて軽装の兵で高句麗を襲った。二月、軍は三千里余りを行軍し士馬ともに疲弊、凍死者が道に連なった。木底城を攻めたが克てず引き返した。夕陽公雲は矢傷を負い、また熙の政治の苛烈さを恐れ病と称して官を辞した。夏五月、寶の諸子、博陵公虔・上党公昭はいずれも嫌疑により死を賜った。肥如と宿軍の城を大々的に築き、仇尼倪を鎮東大将軍・営州刺史として宿軍に鎮めさせ、上庸公懿を鎮西大将軍・冀州刺史として肥如に鎮めさせた。

後燕の滅亡

  • 建始元年(407年)春正月辛丑朔、大赦し建始と改元した。三月、太史丞梁延年は月が化して五頭の白龍になる夢を見た。夢の中でこれを占うと「月は臣、龍は君である、月が龍に化すのは臣が君となる兆しだ」と告げられ、目覚めて人に「国の運命がまさに尽きようとしているのではないか」と語った。夏四月癸丑、苻后が没し、熙はこれを哭して悲慟し父母の喪のごとくであった(苻后の事跡の詳細は別に記されている)。丁酉、太后段氏の尊号を取り上げ外宮に出して住まわせた。五月壬戌、尚書郎苻進が謀反を企て誅された(進は定の子である)。秋七月癸亥、熙は苻后を徽平陵に葬り、甲子、大赦した。
  • 当初、中衛将軍馮跋・左衛将軍張興は先に事件に連座して逃亡していたが、この頃、熙の政治の残虐さを見て従兄の万泥ら二十二人と結盟し、夕陽公雲を主に推し尚方の徒五千余人を動員して四門に分屯させた。跋の弟乳陳らは弘光門を攻め鼓を鳴らして進むと禁衛はみな逃げ散り、そのまま宮に入って甲を配り門を閉ざして拒守した。中黄門趙洛生らが熙に馳せて告げると、熙は「これは鼠盗に過ぎない、何ができようか、朕が戻って誅すればよい」と述べ、后の柩を南苑に置いたまま髪を束ね甲を貫いて馳せ戻り難に赴いた。夜、龍城に至り北門を攻めたが克てず、門外で宿営した。
  • 乙丑、熙は龍騰苑へ退いた。尚方の兵禇頭が城を越えて熙のもとへ来て「営兵は心を同じくして従っている、ただ軍が至るのを待つばかりだ」と自称した。熙はこれを聞いて驚き走り出て、左右は誰も追わなかった。熙は溝の下に潜んで身を隠し、しばらくして左右がその不在を怪しんで探すと、衣冠だけが見つかりその行方は分からなかった。中領軍抜は中常侍郭仲に「大事はまさに成功しようとしているのに帝が理由もなく自ら驚き逃げたのは、まことに怪しむべきことだ、しかし城内は待ち望んでいる、至れば必ず成功するだろう、私はまず城へ向かおう、そなたは留まって帝を待て」と語り、壮士二十余人を分けて率い北城に登ると、将士は熙が至ったと思い込み皆武器を投げ出して降を請うた。しかしまもなく熙が久しく至らず、抜の兵にも後続がなかったため、衆心は疑い恐れ、再び城を下りて苑へ向かうとみな崩れ散り、抜は城中の人に殺された。
  • 丙寅、熙は身なりを変えて林中に隠れていたが、人に捕らえられ雲のもとへ送られた。雲はその罪を数え上げて殺し、その諸子と共に城の北に合葬した。当初、童謡に「一束の藁、両端が燃える、禿頭の小児が来て燕を滅ぼす」というものがあった。「藁」の字は上に「草」、下に「木」があり、両端が燃えれば草も木もことごとく尽きて「高」の字を成す。雲の父の名は跋、小字は禿頭といい、三人の子があり雲はその末子であった。熙はついに雲に滅ぼされ、終には童謡の言葉通りとなった。時に年三十二、在位七年。雲はこれを苻氏の墓に葬り、偽諡を昭文皇帝とした。垂は晋の孝武帝の太元九年、歳は甲申(384年)にあたる年に帝位を僭称してから、熙に至るまで四世、合わせて二十四年、安帝の義熙三年、歳は丁未(407年)にあたる年に滅んだ。