十六国春秋後燕錄一 慕容垂(上)

前燕の慕容皝の第五子、字は叔仁、小字は阿六敦。もとの名は霸、のち缺と改め、さらに讖文に応ずるとして垂と称した。幼少より器量を認められて皝の寵愛を受け、十三歳で偏将となって各地を転戦し、前燕の中原制覇では前鋒都督として大功を立てた。桓温を枋頭に撃破して威名を高めたが、太傅上庸王評との対立から誅殺を謀られ、前秦の苻堅のもとへ亡命した。秦では王猛に憎まれながらも苻堅に厚遇され、淝水の敗戦では潰走する堅を自軍で守り、殺害を勧める子弟の言を退けた。のち鄴の苻丕に疑われて翟斌討伐を命じられたのを機に副将苻飛龍を殺し、後燕建国へ向けて挙兵した。

年表(2件)
  • 元璽三年354年前燕の呉王に封ぜられ、信都に治所を移す
  • 建熙十年369年太傅評らの誅殺の謀を避けて鄴を脱し、洛陽から前秦へ亡命する

出自と皝の寵愛

  • 慕容垂、字は叔仁、小字は阿六敦、皝の第五子、母は蘭淑儀。垂は幼くして非凡で器量があり、豁達で度量が大きく、身長七尺四寸、手は膝を過ぎるほど垂れていた。皝は深くこれを寵愛し、常に諸弟に「この子は闊達で奇を好む、いずれ人の家を破るか、あるいは人の家を成すかのどちらかだろう」と語り、そのため「霸」と名付け「道業」と字したという。世子に立てようとしたが群臣が諫めて思いとどまった。しかしなお世子儁を超える寵遇を受けていたため、儁はこれを不満に思った。
  • 十三歳で偏将となり各地の征伐に従い勇は三軍に冠絶し、宇文氏を滅ぼした功で都郷侯に封ぜられた。石虎が来攻し撤退した後もなお併呑の志を抱いており、鄧恒に数万の兵を授け楽安に屯して攻略の備えとさせると、垂は徒河に鎮して恒と対峙、恒は畏れて侵さなかった。垂は狩猟を好み、かつて猟の際に落馬して前歯二本を折り「缺(欠)」と改名した(表向きは郤缺を慕う意味としていたが、実は醜くなったことを嫌って改めたのだった)。まもなくその名が讖文に応ずるとして「夬」の字を去り「垂」と改めた。

前燕による中原制覇

  • 石虎が没し趙魏が大いに乱れると、垂は儁に「時運は失いやすいもの、機を捉えるには速さが肝要です、弱きを兼ね昧きを攻めるべき今こそその時です」と進言したが、儁は大喪に遭ったばかりを理由に許さなかった。慕輿根が儁に「王子(垂)の言葉は千載一遇の好機です、これを逃してはなりません」と進言し、儁はこれに従い中原を平定した。垂を前鋒都督とししばしば戦って大功を立てた。儁が幽州を平定した際、降兵をすべて生き埋めにしようとしたが、垂は「弔伐の義は先代からの常典です、今まさに中原を平定しようとするなら、徳をもって懐柔すべきで、生き埋めの刑は王師の先声とすべきではありません」と諫め、儁はこれに従った。
  • 儁の皇帝僭称後、黄門侍郎を拝命、安東将軍・北冀州刺史として常山に鎮め、元璽三年(354年)呉王に封ぜられ信都に治所を移し、侍中・右禁将軍・領留台事に遷り龍城に鎮を移すと東北の和を大いに得た。まもなく鎮東将軍・平州刺史・征南大将軍・荆兖二州牧に遷り梁楚の南でその名声を上げた。再び司隷校尉となると王公以下は誰もその威に触れることを避けた。暐の即位後、太原王恪が太宰となりこれを深く重んじ、常に暐に「呉王の将相の才は臣の十倍あります、先帝は長幼の序で臣を先にされましたが、臣の死後は陛下、政を呉王に委ねられますよう、それこそ親と賢を兼ね挙げることになりましょう」と語ったが、暐はこれに従えなかった。

桓温撃退と讒言による亡命

  • 建熙十年(369年)、晋の大司馬桓温が軍を率いて来攻し諸軍がみな崩れる中、垂は車騎大将軍として温を枋頭で撃破し威名を大いに上げた。太傅上庸王評はこれを深く忌み妬み、垂が推薦した将士で殊賞を受けるべき者たちの処遇をことごとく抑えて実行しなかった。垂はしばしばこれを咎め評と朝廷で争ったため、両者の嫌隙はますます深まり、評は太后可足渾氏と共に垂を誅する謀を巡らした。太宰恪の子楷と垂の舅蘭建がこれを知り垂に告げて「先んじて手を打つべきです、ただ上庸王評と楽安王臧を除くだけで済みます」と進言したが、垂は「骨肉が相争い国に乱の端緒を開くことなど、私は死んでも忍びない」と応じなかった。まもなく二人が「あちらの意はすでに決まっている、早く動かなければならない」と再び告げると、垂は「もう取り繕うことはできない、私はむしろ外へ避けよう」と答えた。
  • 冬十一月辛卯朔、垂は大陸への狩猟を口実に微行で鄴を出て龍城へ向かおうとしたが、邯鄲に至った時、平素から垂に愛されていなかった末子の麟が逃げ帰りこれを密告した。垂の周辺には多くの逃亡者が出て、太傅評は暐に上申、暐は西平公強に精騎を率いて追わせ范陽で追いつくと、世子令が殿を務めて防いだため強はあえて迫らなかった。日が暮れると垂は騎兵を分散させ痕跡を消し、南山伝いに鄴へ戻り趙の顕原陵に隠れた。まもなく数百騎の狩人が四方から迫り、抗しても敵わず逃げても道がなく進退窮まったが、折しも狩人の鷹がみな飛び去ったため騎兵たちも散り去った。垂は白馬を殺して天に祭り、従者と盟を結んだ。
  • 令は垂に「太傅は賢を忌み能を妬み、事を構えて以来人々は怨み憤っております、今、鄴城の中では誰も尊(あなた)の居所を知らず、幼子が母を思うように待ち望んでいます、もし衆心に従いその無備を襲えば、これを取ることは掌を指すように容易いはず、事が定まった後は弊を改め賢能を簡んで大いに朝政を匡し主上を輔け国を安んじ家を存続させる、これぞ大功というものです、今日の好機を逃すべきではありません」と進言したが、垂は「そなたの謀のように事が成れば大福だが、成らなければ悔いても及ばない、西へ奔って万全を期す方がよい」と応じた。子の馬奴が密かに逃げ帰ろうと謀ったため、垂はこれを殺した。行く先で河陽に至ると津吏に阻まれ、これを斬って渡った。
  • ついに洛陽から段夫人・世子令・令の弟寶・農・隆、兄の子楷、舅蘭建、郎中令高弼と共に秦へ逃れ、妃可足渾氏は鄴に残した。乙泉の戍主呉帰が閿郷まで追いついてこれを撃ったが退けた。

苻堅への亡命

  • 当初、秦の苻堅は恪の死後、密かに燕を図る志を抱いていたが、垂の威名を憚って動けずにいた。垂の到来を聞くと大いに喜び郊外まで出迎え手を取って「天が賢傑を生めば必ず共に大事を成すもの、これは自然の理だ、そなたと共に天下を定め、泰山で成功を告げてから、そなたを本朝へ帰し幽州を世襲の封地とし、国を去るにも子としての孝を失わず、帰るにも君に事える忠を失わない、美事ではないか」と語った。垂は「羈旅の臣が死を免れただけで幸い、本国の栄誉など望むべくもありません」と謝した。堅はまた世子令や楷らの才を愛し厚遇し、参内のたびに目を注いだ。関中の士民はかねて垂父子の名声を聞いておりみな慕った。
  • 堅の相王猛は垂の雄略を恐れ堅に「慕容垂父子はたとえば龍虎のようなもの、飼い慣らせる存在ではありません、風雲に乗せればもはや制御できなくなりましょう、早めに除くべきです」と進言したが、堅は「わしはまさに英雄を招き集めて四海を清めようとしているのに、なぜ殺す必要があろうか、しかも彼が来た当初、わしはすでに誠意をもって受け入れた、匹夫でさえその言を違えてはならないのに、まして万乗の王においてをや」と応じ、垂を冠軍将軍・賓徒侯に封じ華陰の五百戸を食邑とした。
  • 王猛が燕討伐に赴く際、垂の子令に軍事に参与させ道案内とすることを求めた。出発に際し垂を訪ね酒を飲みながら「私はまさに東夏を清めようとしている、あるいはそなたにとって東の川(故郷)との別れになるかもしれない、何を餞別としてくれるか」と語ると、垂はすぐに佩刀を外して贈った。猛は洛陽に至ると垂の側近金熙に賄賂を贈り、垂の使者と偽らせ令に「我ら父子がここへ来たのは死を逃れるためであった、今、王猛は人を仇のように憎み讒言はますます激しい、秦王は表向き厚遇しているが、その心は測りがたい、大丈夫が死を逃れておきながら結局免れられず天下の笑いものとなろうとしている、私が聞くところでは東朝(燕)では最近ようやく後悔と反省の声が上がり、君主と后が互いに責め合っているという、私は今東へ帰ることにした、そなたも速やかに発つべきだ」と偽って伝えさせた。令はこれを疑い一日中躊躇したが、確かめる術もなく、旧来の騎兵を率い狩りに出ると偽って楽安王臧のもとへ逃げ、石門に至った。猛は令の叛状を上表し、垂は恐れて逃げ出したが、藍田に至ったところで追手に捕らえられた。
  • 堅は東堂で引見し慰労して「そなたは国家の不和で身を委ねて朕のもとへ来た、賢子の心が本を忘れず古巣を懐かしむのも、それぞれの志であり深く咎めるには及ばない、しかし燕が滅びようとしているのは令が防ぎようのないことだ、ただ虎口へ入ろうとしたことだけが惜しまれる、書経にも『父は父、子は子、罪は互いに及ばない』とあるではないか、そなたはなぜこれほど恐れ狼狽するのか」と述べ、垂の爵位を元に戻し恩遇も当初通りとした。堅が暐を捕えた際、垂も堅に従って鄴宮に入り、諸子を集めて対面すると悲慟し、公卿大夫や旧僚吏を見ると憤りの色を隠せなかった。前郎中令高弼は密かに垂に「大王は命世の才をもって思いがけない運命に遭い、艱難辛苦は極まりました、天が良い機会を啓き霊命が一時移ったのは、これぞ鴻漸(大業の端緒)の始まり、龍変の初めというもの、どうか仁慈の心でこれを慰めていただきたい、旧臣を収納して山を成す功を積むべきです、なぜ一時の怒りでこれを棄てるのですか」と進言し、垂はこれを深く受け入れた。

秦朝での重用と淝水の戦い

  • 垂は秦朝にあって京兆尹を歴任し泉州侯に進封され、征伐に赴くたびに大功を立てた。のちに堅が淮南(淝水)で敗れ諸軍がみな崩れる中、垂の率いる三万人だけが無傷であったため、堅は千余騎でこれに合流した。世子寶は垂に「家国は傾き喪われ皇綱は廃れています、至尊(あなた)の明命は図籙に著され、まさに中興の業を隆盛させ少康の功を建てるべき時です、ただ時運がまだ至らず光を韜んで奮起の時を待っていただけです、今、天は乱徳を厭い凶衆は土崩瓦解しています、これぞ天が神機を啓き我らに授けたもの、天が機会を貸して燕の祚を復させようとしているのです、千載一遇、逃してはなりません」と進言した。垂は「そなたの言うことは正しい、しかし彼は赤心をもって命を我らに投じてくれたのだ、どうしてこれを害せようか、天がもし彼を棄てるなら、多くの策を巡らすよりも、むしろその危機を保護し徳に報いる方がよい、徐にその隙を待ってから図ればよい」と応じた。
  • 垂の弟、奮威将軍徳もまた進み出て「隣国が互いに呑み合うのは古くからのことです、秦が強くて燕を併呑したように、秦が弱まった今これを図るのは、仇に報い恥をそそぐことであり、初心に背くことではありません、彼らの土崩に乗じ恭しく天罰を行い、逆氐を斬って宗祀を復し中興を建て洪烈を継ぐこと、これぞ天下の大機、逃してはなりません」と述べた。垂は「私は昔、太傅に容れられず身の置き所もなく秦へ死を逃れて赴いた、秦王は国士として私を遇し恩礼を尽くしてくれた、のちに王猛に売られて自ら明かす術もなかったが、再び昭らかな国士の礼を受けた、この報徳の分はいつも深く思うところだ、もし秦の運が必ず窮まり暦数がわれに帰するなら、首を取ることに何の憂いもない、私はまさに関東を懐柔して先業を復興するつもりだ、関西の地はもとより私の有するところではない、自ずとこれを乱す者が現れよう、君子は乱に付け込まず禍の先鋒とならないものだ、しばらく様子を見よう」と応じた。冠軍参軍趙秋もまた力を尽くして勧めたが、親族たちの多くが堅を殺すよう勧めても垂はいずれも従わず、すべての兵を堅に委ねた。子の農は垂に「あなたが人を険地に追い込まなかったその義声は天地を感動させるに足ります」と語り、垂はその言葉を心に善しとした。

澠池での堅への進言と長安脱出

  • 行く先の澠池に至った際、垂は堅に「王師は他境で不利となり、その地の民は動揺しているかもしれません、詔書を奉じて北方の異民族を鎮撫させてください、しかも龍(龍城)・鄴は旧都で陵墓のある地、そこを通って拝礼を捧げ罔極の恩(父母の恩)に報いたく思います」と進言し、堅はこれを許した。権翼は「国家は敗れたばかりで四方はみな離心の兆しがあります、名将を召集して京師に置き根本を固め枝葉を鎮めるべきです、しかも垂は爪牙の名将、勇略は人並み外れ、いわゆる当代の韓信・白起です、また代々東夏の豪族で人の下に立つ志のない者、たとえば鷹を飼うようなもの、飢えれば人に懐き満腹すれば高く飛び去るもの、ただ急いでその羈絆を強めるべきです」と諫めた。堅は「そなたの言葉は正しい、しかし朕はすでに許してしまった、匹夫でさえ信を重んじるのに、まして万乗の王においてをや」と応じた。翼は「陛下は小信を重んじて社稷を軽んじておられます、関東の乱は垂がその首謀者となりましょう」と述べたが、堅は聞かず、将軍李蠻・閔亮・尹国に三千の兵を授け垂を送らせた。翼は夜に密かに壮士を遣わし河橋の南の空き家で垂を襲わせようとした。垂はこの夜、道が窮まって行き詰まる夢を見て、傍らに孔子の墓を見ると墓には「八」の文字があり、目覚めてこれを不吉に思い占い師に占わせると「道には必ず伏兵があるはずです、くれぐれも用心なさいませ」と告げた。垂はこれを信じ涼馬台から草筏を結んで渡り、典軍程同に自分の服を着せ自分の馬に乗せ、童僕と共に河橋へ向かわせると、伏兵が現れ同を襲ったが、垂自身は馬を馳せて難を免れた。
  • 垂は安陽に至ると参軍田山に長楽公苻丕への書簡を作らせた。堅はさらに驍騎将軍石越に鄴を、驃騎将軍張蚝に并州を守らせた。この時、丕は先に鄴にあり、垂が北へ来ると聞いてこれを乱を為すのではと疑い襲撃を謀ったが、侍郎天水の姜讓が「垂の反逆の兆しはまだ明らかでないのに、殿下が独断でこれを殺せば、臣子の道に反します、上賓の礼で遇し兵を厳しく備えて守り、密かに事情を上表して勅を待ってから図っても遅くはありません」と諫め、丕はこれに従った。垂が到着すると丕は自ら出迎え鄴の西に館を与えた。垂は淮南の敗戦の様子を詳しく語り、趙秋は垂に座上で丕を捕らえ鄴に拠って挙兵するよう勧めたが、垂は従わなかった。垂はこの時、密かに燕の旧臣たちと燕の再興を謀った。

翟斌討伐を口実とした挙兵

  • 折しも秦の平原公苻暉が丁零の翟斌が衆四千を集め洛陽に迫っていると報告し、堅の駅書が相次いで届き、垂に督軍としてこれを討伐させるよう命じてきた。石越は丕に「王師は敗れたばかりで民心は安定せず、罪を負い逃げ隠れる者や乱を望む者は多い、丁零が一度唱えただけで旬日のうちに衆はすでに数万に達している、これがその証です、慕容垂は燕の宿望ある者、旧業を復興する志があります、今、これに兵を貸すのは虎に翼を与えるようなものです」と進言したが、丕は「垂が鄴にいるのは虎を敷いて臥し蛟を負うようなもの、常に肘腋の患いを恐れている、今これを外へ遠ざける方がましではないか、しかも翟斌の凶暴さでは垂の下に甘んじるはずがない、両虎を戦わせて疲弊させ、その後で我らが制する、これぞ卞荘子の術だ」と応じ、垂に討伐を命じた。垂は「下官は殿下の鷹犬、命に従うのみです」と応じ、多くの金帛を賜られたがこれをすべて辞退し、ただ旧来の田園だけを願い出て丕はこれを許した。疲弊した兵二千と古い鎧仗が配され、さらに広武将軍苻飛龍に氐族の騎兵千を授け垂の副将とした。丕は密かに飛龍に「そなたは王室の身内、地位は低くとも実質はそなたが統率者だ、垂は三軍の統帥だが、そなたは垂を見張る主任だ」と戒めた。垂は鄴城に入り廟を拝したいと願い出たが丕はこれを許さなかったため、密かに変装して入ろうとしたところ亭吏に阻まれ、垂は怒ってその吏を斬り亭を焼いて去った。中子農・兄の子楷・紹・弟の子宙はみな苻丕に留められた。
  • 石越は丕に「垂は燕にあって国を破り家を乱し、聖朝に投命して超常の待遇を受けながらあえて方鎮を軽んじて侮り、吏を殺し亭を焼いた、反逆の兆しはすでに明らかで、いずれ乱の階を為すはず、将は老い兵は疲れている今こそこれを除くべきです」と進言したが、丕は「淮南の敗戦で衆は散り親しい者も離れる中、垂は聖躬を守衛した、この功は忘れられない」と応じた。越は「垂は燕にすら不忠であったのに、どうして我らに尽忠するでしょうか、今討たなければ必ず後患となります」と述べたが丕は従わず、越は退いて人に「公父子は小仁に拘って大計を顧みない、我らはついに鮮卑の虜になるだろう」と語ったという。
  • 垂が安陽の湯池に至ると、閔亮・李蠻が鄴から来て丕と飛龍の企みを告げた。垂はこれを機に配下を激怒させて「私は苻氏に忠を尽くしてきたのに、彼らは専ら私父子を図ろうとしている、私がもうやめようとしても、それが叶うだろうか」と述べた。兵が少ないことを口実に河内に留まって募兵し、旬日のうちに衆八千を得た。苻暉は使者を送って進軍を促し、書簡が相次いで届いた。垂は飛龍に「今、賊は遠くない、昼は止まり夜に行き不意を突くべきだ」と告げると、飛龍はこれを是とした。壬午の夜、垂は世子寶に兵を率いて前を進ませ、末子隆にも兵を統べさせて自らに従わせ、氐兵五人を一組として密かに寶と約束を交わし、鼓の音を聞いたら前後から挟撃するよう命じた。氐兵と飛龍をことごとく殺し、家が西にある参佐たちはみな帰らせ、堅に書を送って飛龍を殺した理由を説明した。
  • この時、慕容鳳や燕の旧臣、燕郡王騰、遼西の段延らは翟斌の挙兵を聞いてそれぞれ部曲を率いてこれに帰属した。折しも苻暉が平武侯毛当に斌討伐を命じると、鳳は「私は今こそ先人の恥をそそぐ時だ、将軍のために先んじてこの氐奴を斬らせてくれ」と言い、鎧をまとって真っ先に進むと丁零の衆もこれに続き、秦兵を大破して毛当を斬り、そのまま雲凌台の戍を攻め陥落させ甲士万余人を得た。癸未、垂は河を渡って橋を焼き、遠近から募兵して衆は三万に達し、遼東鮮卑の可足渾譚を河内の沙城に留めて兵を集めさせ、田山を鄴へ遣わし密かに農らに挙兵の呼応を告げさせた。この時すでに日は暮れ、農・楷・宙は鄴中に留まり宿していたが、紹は先に蒲池に出て丕の駿馬数百頭を盗んで待った。甲申の晦日、農・宙は数十騎を率いて微行で鄴を出て列人へ逃れ、楷・紹は辟陽へ逃れた。