十六国春秋前秦錄十 王綂

生涯

  • 王統、擢の子。擢が秦に降ると、秦王健はこれを尚書とした。堅の即位から二年後、統を扶風内史とし、建元七年(371年)、益州刺史に遷り別将楊安と共に仇池を攻略、平遠将軍・南秦州刺史を拝命し、まもなく隴西の鮮卑乞伏司繁を度堅山に攻めその部落五万余戸を降した。建元九年、再び楊安に従って漢川を侵し、統は精鋭二万を前鋒として進み益州を平定、そのまま安に代わって仇池に鎮した。建元十二年、堅は武衛苟萇らに張天錫を討伐させ、統は涼州の衆を率いて萇の後継とし、天錫が降ると統は秦州へ戻った。堅は統の弟広を益州刺史とした。
  • 晋の梁州刺史楊亮が五万の衆で蜀を伐ち巴郡太守費統らに水陸三万を前鋒とさせ亮が巴郡に進むと、広は巴西太守康回にこれを防がせ、別に王虬に蜀漢の衆三万で北の長安を救援させ、江夏太守李丕を益州刺史として成都を守らせ、自ら部下を率いて隴西へ逃げ帰り兄の統を頼った。丕(苻丕)の即位を聞いて統兄弟はみな使者を送り姚萇討伐を請うと、丕は大いに喜び統を鎮西大将軍、広を安西将軍としいずれも州牧に進めた。広はのちに河州牧毛興を枹罕に攻めたが興に敗れ秦州へ逃げ、隴西の鮮卑匹蘭に捕らえられ姚萇のもとへ送られた。興が敗れると広は平陽に拠り再び統討伐を謀ったが、統もまた秦州を挙げて萇に降った。萇はのちに病に伏し、子の興を行営に召すと、姚方成が興に「今、敵はまだ滅ぼされていないのに、王統らはみな部曲を擁している、いずれ人の患いとなろう、除くべきだ」と進言し、興はついに統と広らを殺した。萇はこれを聞いて怒り「王統兄弟はわが州里の者だ、私はまさに彼らを用いようとしていたのに、なぜ勝手に殺したのか」と述べたという。