仏図澄への師事と南遷
- 釈道安、姓は魏氏、常山扶柳の人。十二歳で出家し遊学して鄴に至り、仏図澄に出会うと、澄はこれを見て評価し語り合い、その日一日語り尽くした。これを機に師事し、澄の講論の際の疑問点を鋭く解き明かし、行動にも余裕があった。石氏の乱に際し弟子の恵遠ら四百余人と共に黄河を渡り南へ遊学した。夜、雷雨に遭い稲光を頼りに進むと、前方に人家があり門の中に馬繋ぎ杭があり、その間に一斛ほど入る馬兜(飼い葉桶)が懸けられていた。安は「林、百升」と呼ばせると、百升という名の主はこれを神人と思い厚く歓待した。のちに弟子が「なぜその姓と名を知ったのですか」と問うと、安は「木が二つで『林』、兜(容器)は百升を容れるから『百升』だと分かったのだ」と答えた。
- のちに乱を避けて南の襄陽へ移り、再び仏法を宣揚した。当時、襄陽の習鑿歯は鋭い弁舌で当代に知られ、かねて安の高名を聞いていたため、安が至ると聞いて訪ね、座に着くなり「四海の習鑿歯です」と自己紹介した。安は「弥天の釈道安です」と応じ、当時の人々はこの対句を名対とした。安は常々諸経に注釈を施していたが、その解釈が理に反していないか恐れ、瑞相を見せてほしいと誓うと、白髪眉毛の長い梵僧が夢に現れ「あなたの経典注釈はよく道理に適っている、私はまだ涅槃に入れず西域の辺境に留まっているが、あなたの弘道を助けよう、時々食を供えてほしい」と告げた。識者はこれを賓頭盧(十六羅漢の一人)だと見なした。
苻堅への出仕と晋討伐への諫言
- 堅はかねて安の名声を聞き「襄陽には釈道安がいる、神気清らかで満ち足りている」と常々語り、これを招いて自らを輔けさせたいと思っていた。のちに苻平南に襄陽を攻めさせると、安は朱序と共に捕らえられ堅のもとへ送られた。堅は僕射権翼に「朕は十万の軍をもって襄陽を取り、ただ一人半の人材を得た」と語ると、翼が「誰のことですか」と問い、堅は「安公が一人、習鑿歯が半人だ」と答えた。
- 長安に至ると五重寺に住んだ。当初、堅は石氏の乱の後を受け継いだが、この頃には戸口も豊かになり四方もほぼ平定され、ただ建業(東晋)の一隅だけがまだ克復されていなかった。堅は侍臣と語るたびに江左を平定したいという思いを口にしないことはなく、堅の弟陽平公融や朝臣らはみな切に諫めたが、ついにその意を翻すことができなかった。堅が東苑に出遊した際、安を輦に同乗させると、権翼は「道安は身なりを崩した賤しい士、神輿を汚すのにふさわしくありません」と諫めたが、堅は激しい調子で「安公の道は境地に至り、その徳は時に尊ばれている、朕が天下の重責を担っていても、その徳に代えるには及ばない、これは朕の願いなのだ」と応じ、翼に安を輦に扶け上げさせた。
- これより先、群臣は堅が安を信任し重んじていることから、安に「主上はまさに東南で事を起こそうとしている、公はなぜ蒼生のために一言を進言しないのか」と勧めた。安はこれによって極力諫めたが、堅はついに聞き入れなかった(詳細は堅本伝にある)。羅什(鳩摩羅什)は西国にあって安の風範を聞き、これを東方の聖人だと評した。当初、安が生まれた時、左腕に幅一寸ほどの皮膚があり、手に着けたまま上下に動かせたため、当時の人々はこれを「肉手菩薩」と呼んだという。