十六国春秋前秦錄十 僧朗

崑崙山での隠棲と堅の礼遇

  • 僧朗、京兆の人。若くして仏図澄に師事し、碩学で見識深く、特に讖緯の学に明るかった。秦の皇始元年(351年)、泰山に移り金輿谷の崑崙山に隠棲し、そのため「朗公谷」と呼ばれるようになった。隠士張忠と林下の交わりを結び常に共に遊んだ。忠は常に穴に住んだが、朗は崑崙山に大々的に殿舎を建て楼閣を連ね重ね、質素な装飾ではあったが、いずれも静けさと超然たる気風で称えられた。
  • 堅はその徳を敬い使者を送って施し物を届け、遠く山川を越えて招く旨の書を送った。朗は「精誠は微薄でまだ弘匠には至りません、気力は微弱で長旅には堪えません」と辞退したが、堅は再三敦請し、朗はついに長安へ至り、堅は師の礼をもってこれに仕えた。

姚秦の代の礼遇

  • 堅がのちに衆僧を淘汰した際にも、朗だけは特別な詔を下して「朗法師の戒徳は氷霜のごとく清く学徒も清秀である、崑崙の一山は詮索の対象としない」として除外した。慕容垂・慕容徳もいずれも礼を尽くした。姚秦の代になると姚興が再び使者を送り書を届け、東の封(泰山)を巡狩しご指南を賜りたいと願う旨を伝えた。