生涯
- 徐嵩、字は元高、建武将軍冀州刺史盛の子。若くして清廉潔白で知られた。当初賢良に推挙され郎中となり、次第に長安令に遷った。貴戚の子弟で法を犯す者は嵩がすべて厳しく処断したため、権門との縁故に頼る道は絶えた。堅は深くこれを評価し叔父の成に「人は長吏となればこそ本分を尽くすべきものだが、この若者は際立って清廉で並外れた才がある」と語った。始平郡守に遷り威と恵みで大いに治績を上げた。長安が陥落した際、嵩は中塁将軍として険阻な地に拠って自衛した。苻登の即位後、鎮軍将軍・雍州刺史を拝命した。
- 太初二年(387年)、姚萇が姚方成を遣わし雍州を攻めさせ城が陥落すると、嵩を捕らえて咎めたが、嵩は激しい口調で方成に「そなたの主姚萇の罪は万死に値する、主上(苻堅)は黄眉の斬罪を止めてこれを寛大に扱ったのに、それにもかかわらず内外の要職に列し将としての栄寵を極めておきながら、犬馬にも劣る恩知らずで大逆を犯した、そなたたち羌の輩に人の道理が分かるものか、なぜ早く私を殺さないのか、先帝にお目にかかって姚萇を地下で裁いていただこう」と言い放った。方成は怒って嵩を斬り、その首に漆を塗って便器にした。登はこれを聞いて哀しみ慟哭し、車騎大将軍・儀同三司を追贈し諡を忠武とした。